翻った証言

「ドジャース・水原一平通訳解雇」の波紋はいまも広がり続けている。ニュースを聞いて、私は「ふたつの大きな影響」を案じた。

 ひとつは大谷翔平選手への直接的な影響だ。当初、日本のメディアやファンは「大谷のメンタルは大丈夫か」と家族同然の存在と言われた水原通訳による裏切りと、その離脱による精神的影響ばかりを心配していた。私が案じたのはそこではなく、現実的に大谷の試合出場が一時的にでも制限される可能性に関してだ。水原通訳が19日にESPNのインタビューで語ったとおり、大谷が返済に同意し自ら相手先に振り込んだとすれば、たとえそれが長年の友人(功労者)に対する善意だとしても、法律的には罪に問われる可能性がある。そうなれば、違法賭博に厳しいMLBが、たとえ大谷でも毅然とした処分を講じるのではないか。大谷側の代理人弁護士は当然、それを理解して、水谷通訳に発言の撤回を求めたのか、翌日になって水原通訳は「大谷選手は知らなかった」と証言を翻した。私は、大谷選手自身が真相を話してくれることを望んでいる。

 もうひとつの影響は、日本におけるスポーツベッティング(予想投票形式のくじ)導入の動きに深刻なダメージを与えるだろうという懸念だ。

重要な財源のひとつに

 今回の一連の報道を見ていても、「賭博は絶対ダメ」「なんで賭博に手を出したのか」といった論調が当然のように前提になっている。ある元プロ野球選手は、過去の八百長事件の事例と教訓を持ちだして、「だから野球界は絶対に賭博を許さないんだ」という言い方をしていた。それはある意味正しいが、世界の流れや物事を多角的に見る視点に欠けている。

 今回の事件を正しく理解するには、日本ではあまり知られていない世界の流れ、とくにアメリカの現状を知る必要がある。

 アメリカでは一部を除いてスポーツ賭博が禁じられていたが、2018年にそれを禁じるのは憲法違反だとの判断が下され、州ごとに合法的なスポーツベッティングが導入された。いまでは全米約40の州で行われている。しかもこのスポーツベッティングは大変な人気を得ている。2023年のスーパーボウルでは、たった1試合で2兆円を超える売上があった。年間ではすでに10兆円市場になっているとの報告もある。売上の一部は、スポーツ予算やプロスポーツ団体に還元される契約になっている。例えばMLBは、全売上の一定割合を受け取る決まりだという。もしそれが0.5%だとすれば、売上10兆円なら年間500億円の収入を得るわけだ。今回の報道でMLBは賭博に対して厳しいと言われるが、それは「違法賭博」であって、MLBはむしろ合法的なスポーツベッティングとは協調していて、しかもそこから得られる収益は重要な財源のひとつになりつつある。

550万円がなく五輪を断念

 私はスポーツ界の重鎮や競技団体のトップらにスポーツベッティング導入の是非を尋ねているが、ほぼ全員が導入に前向きだ。なぜなら、日本で導入すれば「年間7兆円の売上が見込まれる」との試算があり、仮にこの10%をスポーツ財源に還元したら、「年間約7千億円の財源を得ることができる」からだ。

 いまスポーツ庁の年間予算は令和6年度で約361億円しかない。うち約100億円が強化費だ。東京2020までは特別な予算も組まれたが、自国開催の五輪が終わったいまは強化費が削られ、各団体とも苦労している。

 水球女子日本代表は、パリ五輪に向けた最後の挑戦となるはずだった2月の世界選手権(ドーハ)に派遣してもらえなかった。「自前の費用約550万円が日本水泳連盟にないから」というのがその理由で、戦わずして水球女子日本代表のメンバーはパリ五輪をあきらめさせられた。

 また、卓球女子の代表決定にあたって、伊藤美誠が補欠としての代表入りに難色を示した。それはただひとりの補欠が、正選手たちのスパーリングパートナーを務めるほか、雑用も何もかも受け持つ必要があるからだ。これも予算減の影響があるだろう。クレデンシャルの関係で試合会場に入れる人数が制約されるとはいえ、予算があれば、会場近くに練習場を手配し、日本から複数の練習要員を連れて行くことは可能だが、予算がなければそんな発想にはならない。

セーフティガードが機能

 レスリングでも同様だ。東京2020までは五輪本番だけでなく、国際大会にもスパーリングパートナーが同行したが、いまはもうそんな予算は削られたという。

 一方、アメリカをはじめ海外各国は今後、潤沢なスポーツベッティング財源を活用して、強化やスポーツ振興に桁違いの予算を投入できる。数千億円対361億円の戦いが待っていることを日本のスポーツファンはどこまで理解しているだろう。それではまるで、鎖国をしているようなものだ。

 加えて、私が強調したいのは、強化費よりむしろスポーツ振興費の方だ。スポーツ庁は、教員の働き方改革に対応するため、「中学部活の地域移行」を一方的に現場に圧しつけた感がある。しかし、現場では予算もなければ人材も施設もないため困り果てている。こうした改革を進めるためにもスポーツベッティングが生み出すスポーツ財源はどうしても必要なのだ。

 しかし、水原通訳の事件で「スポーツ賭博」のイメージや一般ファンのアレルギーはいっそう高まり、導入への反対論が高まるのではないかと心配する。

 IRと一緒にして危険視する人たちも多いが、特定地域にカジノを建設するIRと、100%インターネットで完結するスポーツベッティングは社会的影響がまったく違う。しかも、導入を模索するIT企業の説明によれば、合法的なスポーツベッティングにおいてはセーフティガードがきちんと機能するため、賭けすぎや生活破綻は起こりづらいという。その人の経済力によって判断される与信範囲でしか賭けられない。窓口で持っているお金を全部叩きつけるような賭け方はスポーツベッティングでは出来ないのだ。

合法だったら

 しかも、スポーツベッティングは「オンライン・ベッティング」といって、試合が始まってからも賭けに参加できる。これまで日本のギャンブルは、競馬、競輪にしろtotoにしろ、試合開始までに投票が締め切られる。スポーツベッティングは試合中も、「次の打者は三振かホームランか」「この投手は最終的に何個の三振を奪うか」といった細かな賭けが楽しめる。つまり、一攫千金を求めるギャンブルというより、観戦しながらよりスポーツを楽しむためのゲーム感覚がスポーツベッティングの魅力のひとつだ。だから、賭け金が100円単位で、配当がそれほど多額でなくても当たれば自尊心が満たされ、スポーツ観戦にいっそう熱が入るという効果もある。

 また、今回の事件報道であまり指摘されない見方がある。

 それは、水原通訳が手を染めたのが「違法賭博」だから、6億8千万円もの負けを背負う結果となったという点だ。違法な業者は、法律的な縛りもなく、むしり取るだけ取って儲けようとするのだろう。もしこれが合法的なスポーツベッティングだったら、そもそも水原通訳はそこまでの大金を投じることができなかったはずだ。

 もうひとつ気になるのは、多くのコメンテーターたちが、「賭け事に手を出したら、ギャンブル依存症になる。だから手を出してはいけない」という論調で話すこと。しかもその言い方がスムーズに受け入れられ、視聴者もそのような気分になっていないだろうか。私はそうした偏った論調に首を傾げる。「お酒に手を出したら、アルコール依存症になる。だから一切飲んではいけない」と言うようなものではないか。

 きちんと冷静に判断し、多角的な視点を持った上で、スポーツギャンブルの是非についても語れる環境が醸成されるよう期待する。

スポーツライター・小林信也

デイリー新潮編集部