「アウト!」をコールしたものの

 1979年の日本シリーズ第7戦(広島対阪神)で“江夏の21球”の球審を務めた元パ・リーグ審判部長・前川芳男さんが4月26日に他界した。享年82。筆者は2013年に、退職後の前川さんに審判時代の思い出深い試合をテーマに取材していた。故人を偲びつつ、当時の談話を再現してみた。【久保田龍雄/ライター】

 横浜桜丘高、専大、興亜電工で選手としてプレーした前川さんは、現役引退後、大学時代の恩師に「東都大学(野球連盟)の専修OBの審判がいないから、お前がやれ」と命じられたことがきっかけで審判になった。

「それで大学の審判をやったら、(適性ピッタリで)こんな簡単なものはないと思ってね。どうせやるんだったら、プロでやろうかと。そうしたら、パ・リーグのほうから話があって、それじゃあ、やりましょうと入ったんです」

 1967年に入局した前川さんは、1年間審判を務めたキャリアから、1年目から1軍の審判として出場した。

 当時の印象に残る試合は、二塁塁審を務めた1971年5月3日のロッテ対東映。1対6とリードされた東映が9回、大杉勝男のソロで1点を返したあと、2死満塁と猛反撃に転じたが、次打者・末永吉昭は遊ゴロ。広瀬宰はセカンド・山崎裕之に送球し、前川さんは「アウト!」をコールした。本来なら、これで試合終了になるはずだった。

「実は山崎がボールを落としたんですよ。それがわからなくてね。協議してすぐ判定をセーフに変えたんだけど、そのあとがね……」

 直後、東映は連打で6対6の同点に追いつき、延長10回、代打・作道烝の満塁本塁打などNPB史上初の5打者連続本塁打が飛び出し、14対8で勝利した。

「試合が終わってから、ロッテからはボロクソ言われたね。“あんた、どうして判定(9回の遊ゴロ)通してくんなかった”って。あのときは、あと1人だから(大勢に影響ないだろう)って気持ちもあった。これで終わりだなって思ったら、4点差を(追いついて)逆転して。ピッチャーは大変だったね」

「同時はアウトだったですよ、心の中でね」

 阪急時代の今井雄太郎が1978年8月31日のロッテ戦で史上14人目の完全試合を達成したときも、前川さんは二塁塁審として目の当たりにしている。

「あれは大橋(穣)がショートじゃなかったら、完全試合できてないですね。(外野に)抜けるような当たりが2、3本あった。大橋じゃなかったら内野安打です。最近、今井とこの話をしたら、やっぱり大橋に助けられたって。(記録には)運不運ってありますよ。審判の立場では、完全試合やノーヒットノーランは、球審より一塁塁審が一番気を遣う。私も完全試合2つ、ノーヒットノーランを1つ見たし、あと1人か2人でダメになったのも、けっこう見ました。辞めたから言うけど、そういう記録はね、やっぱり達成させてあげないと。ルール上は、同時はセーフですが、私はね、同時はアウトだったですよ、心の中でね。同時のプレーは内野手の好プレーの結果だから、(アウトで)認めてあげたほうが、お客さんも喜ぶんです。若いころアメリカに行って、オープン戦の球審やったんです。そしたら、私がストライクって言うと、お客さんがブーイングするんですよ。何で? オレの判定が間違ってんのかなと思って、試合後にお客さんに聞いたら、あなたのストライク(判定)を見に来たんじゃない。バッターが振るのを見に来てんだ。バッターが振らないのにストライクとは何事だって。根本的に野球が違うなって。(守備の好プレーも)アメリカでは同時アウトという感覚なんです」。

「カーブは全然曲がってなかった」

 そして、1979年11月4日、日本シリーズ第7戦での“江夏の21球”で、前川さんは球審を務めた。

「あのときは雨降ってたんです。(広島1点リードの9回満塁のピンチで)私がマウンドの江夏のところに行くと、“(雨で)もう放れません”って。それで“じゃあ、放れるようにグラウンド整備してやるから。近鉄もお前も条件は一緒なんだ。だから、お前も辛抱してやれ”って言い聞かせました。そのあと、江夏はカーブで(石渡茂のスクイズを)外したと言ってるけど嘘。カーブは全然曲がってなかった。だから、実際にあのボール見て、あれ? 外したと思ったね。外したのなら、変化球じゃないでしょ。まあ、江夏のプライドもあるから、30年以上、ずっと黙ってたけどね。実際には雨でグラウンドがぬかるんで踏ん張りが利かなかったんだろうし、結果的に(カーブが曲がらなかった)そういうことになったんでしょう」

“早くやれ!”の一言で“絶対負けない”に変わる

 前川さんは、1988年10月19日のロッテ対近鉄のダブルヘッダー、“伝説の10・19”でも、第2試合で球審を務めた。

「あの日はハッキリ言って、私は第1試合で(西武の優勝が)決まると思ってた。近鉄が(7回まで1対3の劣勢)おかしくなって、仰木(彬)監督も焦ってたしね。第2試合も、(先発・高柳出己が)いきなり(佐藤健一に)デッドボール。ぶつけたほうの監督が出てくることはほとんどないのに、仰木さんが出てきて、“早くやれ。痛いんなら代われ!”って。あの試合は時間制限があったから、仰木さんにしたら焦るよね。有藤(通世)監督も“わざとやってるわけじゃない”と口論になって、最後には“もう絶対あなたんとこに負けないから”って。だから、9回に二塁けん制球の判定で揉めたときも抗議のし方(気合)が全然違ってた。普通だったら、ロッテも(近鉄に)勝たしてやってもいいという人間的な情が心の隅にあったかもしれない。だけど、“早くやれ!”の一言で“絶対負けない”に変わる。勝負事っていうのは、そんなものなのかなと思いましたね」

「昔の球場は設備が貧弱で、コンクリートむき出しのフェンスに激突する事故もあった。そういう意味で、昔の選手は特攻精神だった。今の選手は恵まれてます」と往時を懐かしみながらも、終生野球に愛情を注ぎつづけた前川さん。心からご冥福をお祈りいたします。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

デイリー新潮編集部