時は冷戦真っ只中、ソ連のエリート兵士が最新鋭戦闘機「ミグ25」に乗って函館空港へやってきた――。突然の“珍客”に日本と世界が仰天したのは昭和51年9月のこと。エリート兵士はアメリカへの亡命を希望し、3日後にはミグ25を残してさっさと渡米してしまった。空港に残されたのは扱いに困る巨大な“置き土産”。今でこそ「冷戦期のびっくり事件」として語られているが、現在の国際情勢で発生すれば当時とまた異なる緊迫展開は必至だ。どことなくスッキリしないてん末を含めて、あらゆる意味で時代の変化を実感できる事件かもしれない。

(「新潮45」2007年2月号特集「昭和&平成 13の『乗り物』怪事件簿 ベレンコ中尉『ミグ25』亡命事件」をもとに再構成しました。文中の年齢、役職名、年代表記等は執筆当時のものです。文中敬称略)

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国籍不明の飛行機が明らかな領空侵犯

「函館の皆さんさようなら大変ご迷惑をかけました」

 昭和51(1976)年9月24日夜、こんな文字が書かれた横断幕を付けた「貨物」が、米空軍の輸送機に積み込まれ、函館空港から飛び立った。ただし、警察、行政担当者から自衛隊までが見守るものものしい雰囲気。ほのぼのとしたメッセージとは不釣合いだ。空港周辺には地元住民が大挙して押し寄せ、物珍しそうに輸送作業を見つめた。

 貨物の正体は、旧ソ連の最新鋭戦闘機「ミグ25」である。最高時速は当時世界一のマッハ3.2。防衛庁・自衛隊が「敵」として扱ってきた国から突然、舞い降りた「招かれざる客」に違いなかった――。

 51年9月6日午後1時11分。北海道奥尻島の自衛隊のレーダーに、白く点滅するシンボルが突如として映し出された。位置は函館市の北西わずか300キロの日本海上。しかも、沿海州方面からほぼ一直線に、北海道に向かってくるではないか。速度はマッハ0.69(時速830キロ)。国籍不明の飛行機が、明らかに領空を侵犯してきたのである。

「アラート! 直ちに出動準備せよ」

 千歳市にある航空自衛隊第二航空団は、F4EJファントム2機をスクランブル(緊急発進)させた。ところが、たった数分後、機影が自衛隊のどのレーダーからも消えてしまう。ファントムも“目標”を失い、仕方なく引き返してしまった。

2枚の尾翼にソ連軍の象徴・赤い星が

「緊張の空白」が破れたのは、1時半過ぎのことだった。不気味な黒い機影が、鼓膜を突き破るような爆音とともに、函館空港の上空に現れたのだ。空港の拡張整備工事に携わっていた作業員は、腰を抜かした。

「(略)最初は、アメリカの飛行機かなあ、ぐらいに思ったんですが、マークが少し変なんですね。それでも、まさかこの空港に下りてくるとは思いませんでしたよ。戦闘機なんか縁のない空港ですからね。(略)」(「週刊新潮」昭和51年9月16日号)

 1時50分過ぎ、その飛行物体は、空港上空を2回、大きく旋回した後、滑走路の真ん中あたりにするりと着陸。230メートルほどオーバーランした挙句に、芝生に突っ込んで停止した。2枚の尾翼には、ソ連軍の象徴である赤い星のマークがくっきりと見えた。

 真昼の椿事。さすがは「世界最速」というべきなのか。ミグ25は、あれよという間に、日本の一地方空港に着陸した。飛行高度を急激に下げ、地上50メートルという超低空飛行に移ったため、自衛隊のレーダー網をかいくぐることができたのだった。

威嚇するかのように、拳銃を空に向けて一発

 着陸したミグの機体からは、モスグリーンの戦闘服に身を包んだ1人の青年が姿を現した。ソ連極東防空軍のエリート兵士、ビクトル・イワノビッチ・ベレンコ中尉である。背が高く、がっちりした体格。地上に降り立ち、近くでカメラを構えた工事作業員の姿を見つけるや否や、威嚇するかのように、拳銃を空に向けて一発ぶっ放した。その作業員は、慌ててフィルムを抜き取って差し出した。

「機体にカバーをかけてくれ」

 さらにベレンコは、押っ取り刀で駆けつけた空港職員にそう要望すると、あとはおとなしく従った。

 前代未聞の異常事態を知らせる報道は、瞬く間に全世界に伝えられた。日本人の誰もが度肝を抜かれた。東西冷戦下、共産圏最強国の兵士が戦闘機で単身、ずかずかと乗り込んできたのである。北海道の漁船が、北方領土海域でソ連当局に拿捕される事件が続発した時期でもあっただけに、緊張の度合いは一気に高まった。

 ミグの機体の管理とベレンコへの事情聴取は、警察が主導。軍事的な事案だとはいっても、交戦権を否定する憲法上の制約により有事法制がなかったことなどから、防衛庁・自衛隊はほとんど関わることができなかった。

「ソ連にはない自由がほしい。アメリカに行きたい」

 日本に対し、ベレンコは亡命を申し出た。そして、あっさりと認められて、羽田空港からアメリカに向けて飛び去った。強行着陸から3日後のことである。

“置き土産”ミグ機の扱いが大問題に

 国内では、ソ連の秘密警察である国家保安委員会(KGB)、もしくはアメリカの情報機関である中央情報局(CIA)による陰謀説やスパイ説がしきりに流布されたが、本人がいなくなり、真相は闇に葬られた。ソ連では、ベレンコの家族が会見を開き、涙を流しながら帰国を訴えたものの、これも無視された格好となった。

 騒動の張本人が日本を去ると、今度は“置き土産”のミグ機の扱いが大問題となる。だが、政府の対応は鈍かった。自衛隊最高指揮官でもある三木武夫首相(当時)は、ベレンコやミグの扱いを宮沢喜一外相(当時)に一任し、前面に出ることはなかった。

 折りしも、当時、政界を揺るがせたロッキード事件で、田中角栄元首相が逮捕されてから2カ月後のことでもある。自民党内では、反三木派勢力が、事件追及に熱を上げる三木の退陣を求める「三木おろし」攻撃を展開していた。“平和な”政争に明け暮れ、外交や有事どころではないといった風情であった。

 この間、ソ連は日本に対し、軍事機密の宝庫であるミグの返還を執拗に求めてきた。が、結局は自衛隊と米軍の協力体制の下、機体は函館から茨城県の百里基地に移送後、解体されて性能や部品について念入りに調査された。

 ただ、ミグの機密については、「CIAが既に把握している」とか、「そもそも性能自体がほかの戦闘機より劣るので価値はない」といった情報も流れた。期待したほどのデータは得られなかったともいわれた。

自衛隊は失地回復の機会をうかがっていた?

 自衛隊は、表向きは「蚊帳の外」に置かれた格好だった。けれども、後年、極秘裡に、事実上の防衛出動というべき「超法規的行動」をとっていたことが、自衛隊関係者からの情報を元にした週刊誌報道などにより暴露された。

「ソ連軍がミグを奪還しにくる」

 海外からのこんな情報が、亡命事件の発生直後に自衛隊を駆けめぐった。ソ連の攻撃を想定し、自衛隊上層部は、高射砲や戦車を函館空港付近に配備したほか、函館の第28普通科連隊に武装待機命令を出した。津軽海峡では、海上自衛隊の艦艇が展開していたというのである。

 事件対応に従事した元自衛官、大小田八尋が平成13年(2001年)に著したノンフィクション『ミグ25事件の真相』には次のようなくだりがある。

「……現地の第二十八連隊長に対し、『ソ連軍ゲリラを撃滅せよ』という口頭命令が与えられたのである。総理の防衛出動命令が出る前だから、三好陸幕長の強い責任感と用意周到からくる、独断専行であった」

 これが事実だとすれば、戦後の文民統制(シビリアンコントロール)の原則から逸脱する行為ということになる。ミグの機体を見失うという失態を演じた上に、強行着陸後も補助的な役割しか果たせず、「張子の虎」「格好ばかり」などと揶揄された自衛隊だが、舞台裏では、虎視眈々と失地回復の機会をうかがっていたといえる。

事件から10年後は「多忙な毎日」

 さて、首尾よくアメリカに逃亡することができたベレンコはその後、どうなったのであろうか。事件から10年後に、日本のマスコミのインタビューに気さくに答え、生活ぶりについて次のように語っている。

「航空機関係の私的なコンサルタント会社で働いています。また、さまざまな政府機関の仕事もしています。非常に多忙な毎日ですね」(「週刊ポスト」昭和61年9月26日号)

 加えて、故国ソ連を「強制収容所」だと非難する一方で、新たに結婚して2人の子供をもうけたことや、旅行で再来日したことも明かしている。どうやらすっかり、自由な生活をエンジョイしているようなのだ。なんだか「やっぱりアメリカの手引だったのでは」と勘ぐりたくもなるが、東西冷戦などとっくに終わった今となってはもう、あまり意味はないだろう。

 このインタビューから5年後の平成3年、ソ連は崩壊した。気の早い向きには「第三次世界大戦でも始まるのか」と、物騒な想像すらさせた亡命事件も、いつしか人々の記憶の彼方に消えていくのだった。

菊地正憲(きくちまさのり)
ジャーナリスト。1965年北海道生まれ。國學院大學文学部卒業。北海道新聞記者を経て、2003年にフリージャーナリストに。徹底した現場取材力で政治・経済から歴史、社会現象まで幅広いジャンルの記事を手がける。著書に『速記者たちの国会秘録』など。

デイリー新潮編集部