松田聖子

 松田聖子が中央大学法学部通信教育課程を卒業した。3月24日には、卒業式に出席。翌日、スポーツ紙に寄せたコメントでは、

「中央大学で法律を学ぶことができた4年間は、私にとって素晴らしい時間でした」

 などと喜びを語った。

 31日に放送された「サンデーLIVE!!」(テレビ朝日系)では、中大法科大学院教授でもある野村修也弁護士が「うちの法学部は、通信教育課程と通学課程は基本的には受講の仕方の違いだけで本当に同じレベル」と解説。

「続けてきた方のなかでも25パーセントぐらいしか卒業できない難関なんです。そのなかで4年間で修了されたのは本当にすごいことなんで、努力がすごかったんだなと思います」

 と、快挙であることを証言した。

 世間の反応としては、「意外」という声が多いなか、「さすが」という声もある。彼女はもともと「努力の人」だというわけだ。たしかに、歌手デビュー前からファンになった筆者から見ても、むしろ、なるほどという印象を持った。

 というのも、彼女は子どものころからそうやって生きてきた。1989年に出版された「松田聖子ストーリー 魔性のシンデレラ」(大下英治)には、小学校5年のとき、クラス委員に立候補して落選したあと、次の機会に再挑戦して当選したエピソードが出てくる。

「彼女は、一度狙いを定めると、目的を遂げるまでは、決してあきらめない。すさまじいまでの努力をする」

 というのが、大下の聖子評だ。

松田聖子

■「お医者さんのお嫁さんになる」

 実際、高校進学についても、地元のカトリック系名門校・久留米信愛女学院を志望。教師から「まず無理やろ」と言われながら、猛勉強に励んだ。直前には風邪だとウソをついて学校を1週間休み、受験対策に専念して合格にこぎつけたという。

 恋愛に関しても、小5のときにひと目ぼれした男子にアタックを続け、高校時代にようやくデートするという粘り強さを発揮。その男子が「痩せた女は嫌い」だと知ると、ひたすら食べて5キロ太るといった涙ぐましさも見せた。

 また、芸能人では郷ひろみや原田真二に憧れ、のちに郷とは結婚目前まで行ったし、原田とは不倫騒動も起こした。さらに、幼少期には「お医者さんのお嫁さんになる」という夢も。二度目と三度目の結婚相手が歯科医だったのは、偶然ではないだろう。

 そんな聖子が何より「すさまじい努力」をしてつかんだのが歌手としての成功だ。

 高1の春、テイチクレコードの新人オーディションを受け、二次予選で落選。その夏にはホリプロタレントスカウトキャラバンの九州大会に応募したが、書類審査で落選してしまう。しかし、友人が合格したことからデュオで出場して、最終5組まで残ることができた。

 そして、高2の春、CBS・ソニーと集英社が主催するミス・セブンティーンの九州大会に出場して、ついに優勝。ただ、それを知った父親の逆鱗(げきりん)に触れることになる。

「芸能界なんちゅう、あげな汚か世界に、大切なお前を入れることができるか。新人歌手のおなごの子なんか、すぐ男にだまされてしまうたい」

 という厳しい言葉と平手打ちまで浴びたうえ、高校からも全国大会に出場するなら退学と言われたため、泣く泣く辞退することにした。

松田聖子

■発音を直すために舌を手術

 それでも、彼女は諦めきれず、平尾昌晃音楽学院の福岡校に通い始める。平尾は彼女の声質と華、そして誰よりも練習熱心なところにほれ込んだが、歌にはまだ出来不出来があったという。

 さらに、講師のひとりからラ行の発音が不明瞭だと指摘され「舌の問題は、歌手として致命傷。プロにはなれない」とダメ出しされることに。だが、聖子は舌の裏側の筋を短くする手術を受け、この「致命傷」を1週間で克服してしまった。

 とはいえ、いくら才能を磨いても、見つけてくれる人がいなければ世に出ることはできない。幸いにも、彼女の「声」に耳を留める人がいた。全国大会の結果に満足できず、出場者の歌唱テープを聴きまくっていたCBS・ソニーの若松宗雄ディレクターだ。

「語れ!80年代アイドル」(KKベストセラーズ)掲載のインタビューによれば「声」に加えて本人にも会って話したことで「この子なら絶対売れるぞ!」と確信。しかし、その勢いで父親を説得しようとしたところ「やっぱりダメだ」と言われてしまう。

 さらに、帰京後、電話をしても「ダメと言ったら、ダメなんだ。もう電話してくるな!」と拒絶され、打つ手なしの状態に。それが数カ月にわたって続き、そのまま断念してもおかしくない状況だったが、若松の気持ちをつなぎとめたのは聖子の一途さだった。

「そのあいだ、2週間に一度くらいの割合で、彼女からは手紙が来ていたんですよ。『歌手になりたい』『頑張ります』そんな思いが、ていねいできれいな字でたくさん綴られていました」

松田聖子

■ずっと抱いていた大学生活への憧れ

 手紙を読むうち、若松はもう一度会おうと考え、若い女性スタッフに電話をかけさせた。もし父親が出たら、友達だとウソをつくように指示したが、運よく本人が出たという。

 そして、冬休みに上京した聖子と会い、どうにかして父親を説得しようという気持ちを共有。彼女は「歌手になれないなら家出する」「23歳になったら歌手をやめてお嫁に行くからそれまでは好きにさせて」とまで言い、ついに父親が音を上げた。

 その後、高3の夏には自らの意志で東京の堀越高校に転校。卒業を待たずして上京したことが連ドラ「おだいじに」(日本テレビ系)への出演などさまざまな幸運を呼び、1年後にはトップアイドルになるわけだ。

 そんな成功の最大の決め手はおそらく、父親の猛反対だったのではないか。今と違って、子ども、特に娘が芸能界に進むことをよしとしない親が多かった時代。彼女はそれを振り切って歌手になろうとしたことで、よりいっそう頑張ることができ、さらなる強さを身につけた。

 いわば、親の反対をバネにして、飛躍していったのだ。前世代の山口百恵らと比べ、何かと新しい世代の象徴のように見られた聖子だが、やはり昭和の人だったといえる。

 さて、話を現在に戻すと――。

 高校卒業から40年も過ぎてから、大学で法律を学ぼうとした理由は何だろう。18歳でデビューした聖子だが、当時から大学生活への憧れも口にしていた。また、スキャンダル報道に対して芸能人がなかなか反論できないこと、独立して会社を立ち上げたことなどを通して、法律への関心が高まっていったようだ。

松田聖子

■悲劇をプラスに変える力

 さらに、通い始めて2年目にはひとり娘・神田沙也加の死という悲しい出来事にも見舞われた。ただ、大学での勉強に励むことでその悲しみもいくらかやわらぎ、乗り越えることにつながったのではという見方もある。

 たとえ悲劇でもそれをプラスにできる「人生力」のようなものが備わっていることが、聖子を大スターたらしめてきたのだ。

 そういえば、最初の夫・神田正輝も体調不良に苦しみながら「朝だ!生です旅サラダ」(テレビ朝日系)に出続けている。彼もまた、ライフワークを諦めないことで、ひとり娘に先立たれた悲しみを乗り越えようとしているのだろう。

 松田聖子、62歳。その生き方はときに打算的と評されるが、目標のためにはどんな努力も惜しまない姿がそう見えるだけかもしれない。アイドルとして芸能人として女性として、そして人間としての強さが、夢を現実にできる最大の武器であり、多くの人を惹きつけるゆえんだ。(一部敬称略)