大谷翔平選手(右)の専属通訳だった水原一平容疑者(左)=2024年3月18日、韓国・ソウルの高尺スカイドーム

 メジャーリーグの大谷翔平選手の銀行口座から1600万ドル(約24億5千万円)超をだまし取ったとして銀行詐欺容疑で訴追された元通訳の水原一平容疑者。IRS(米・内国歳入庁)の犯罪捜査官が詳細に記した37ページにわたる訴状を、現地在住のジャーナリストが読み解いた。

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■現地記者は「イッペイ・イズ・ザ・ベスト」

「イッペイ・イズ・ザ・ベスト」

 水原一平という人は、一体どんな人間なのか、と尋ねると、MLBを取材するあるアメリカ人記者は、間髪入れずにそう答えた。

 約24億5千万円超という気が遠くなるような金額を、大谷選手の銀行口座から不正送金した疑いで訴追され「容疑者」と呼ばれるに至った水原氏。

 それでもこの記者は「イッペイ・ワズ・ザ・ベスト」と過去形で表現するのではなく、あくまで「イズ」と現在形で「素晴らしい人」と表現した。

 言葉を使うことを職業にしている彼がそう形容した裏には、彼なりの理由と葛藤があった。

「一平は親切で礼儀正しく、仕事熱心」とその記者は言う。「これ以上ないほどナイスな人間が、ギャンブル依存症という嵐にのみ込まれると、ここまで常軌を逸した行動を取るのだと知った。私が知っている日ごろの彼の人格と、異常な行動との整合性が、どこにもない」

IRS(米・内国歳入庁)の犯罪捜査官が詳細に記した37ページにわたる訴状の一部

■大谷選手と偽って銀行に電話

 その“常軌を逸した行動”のひとつが、自らを大谷選手だと偽って、銀行に電話をかけるというリスキーな行為だった。

「お客さまとの会話は、録音されている可能性があります」

 アメリカの銀行のカスタマーサービスの番号に電話をかけると、まず流れてくるのは、この機械音声フレーズだ。延々と待たされ、やっと人間が出るまで10分以上かかることもザラだ。

 IRSの犯罪捜査官が詳細に記した文書によれば、水原氏は2022年の2月2日ごろに銀行Aに電話をかけて「車のローン」の名目で大谷選手の口座から違法賭博の胴元のスタッフの口座に送金しようとしたが、失敗している。送金不可だっただけでなく、この大谷選手の口座のオンラインバンキング自体を凍結されてしまう。水原氏はパニックになったはずだ。

 行員が何を質問して、どの点を不審に思った結果、凍結の判断を下したのかは訴状には書かれていない。だが、今振り返れば、この行員は犯罪行為を未然に防いだ英雄だ。

 しかし、水原氏は諦めずに同じ日に再び銀行Aに電話をかけ、別の行員に凍結を解除してほしいと頼んだ。

 アメリカの大手銀行の場合、客の電話を取るのは全米各地のカスタマーセンターの行員で「アラバマ州のジョンです」「テキサス州のエリカです」などと毎回全く違う人間が出ることがほとんどだ。万一通話が途中で切れてしまった場合、再びかけ直し「さっきのジョンさんにつないでください」と言っても、同じ人間につなげてもらえない。最初から全てやり直しになる。

 このシステムが、水原氏にとっては逆に「吉」と出た。

 行員は口座名義の本人かどうかを確認するため、大谷選手しか知り得ないはずの質問をする。

「あなたのお母さんの結婚前の旧姓は?」「あなたが最初に飼ったペットの名前は?」「あなたが卒業した小学校の名前は?」などだ。これらの質問に正確に答えることは、水原氏には朝飯前だったはずだ。

チェイス銀行の支店。来店するのは高齢者の客が多い(この銀行が銀行詐欺の被害にあった「銀行A」とは限りません)(撮影/長野美穂)

 そもそも水原氏は2018年ごろにエンゼルス球団のキャンプ地があるアリゾナ州の銀行Aの支店に、大谷選手と一緒に行き、大谷選手が口座を開くのを手伝っている。当然、この「セキュリティー質問」の答えも、大谷選手から聞いて水原氏が登録した、もしくは大谷選手自身が登録したとしても水原氏の助けを借りたはずだ。

 訴状によれば、水原氏はこの銀行Aに、すでに自らの名義の口座を持っている。自分が使っている馴染みのある銀行に大谷選手を連れていったのは、ごく自然なことだろう。

バンク・オブ・アメリカの支店。ほとんど人がいない(この銀行が銀行詐欺の被害にあった「銀行A」とは限りません)(撮影/長野美穂)
ウェルズ・ファーゴの支店。こちらも閑散としている(この銀行が銀行詐欺の被害にあった「銀行A」とは限りません)(撮影/長野美穂)

 アリゾナ州のキャンプ地の「テンピ・ディアブロ・スタジアム」の周辺をグーグルマップで見ると、チェイス銀行、バンク・オブ・アメリカ、ウェルズ・ファーゴ、USバンクなどの大手銀行の支店があり、恐らくこのうちのどれかだと思われる。

■社会保障番号もスラスラと

 また、本人確認のプロセスで、行員から絶対に聞かれるのは社会保障番号だ。米国住民にとっては命の次に大切と言ってもいいほど重要なこの社会保障番号。通常、誰もが自分の番号を完全に暗記しており、ほぼ絶対に間違えずにスラスラと暗唱できる。 

 生年月日と同じように、すでに自分の身体の一部のような番号なのだ。日本のマイナンバーは重要度の点で比較にならない。

「下4桁は何ですか?」「9桁全部言ってください」という質問に、アメリカ人であろうが外国人であろうが、即座に答えられるのが当たり前で、途中でつまってしまうと確実に怪しまれる。

 水原氏は大谷選手の番号をスラスラ言えるように、相当練習したはずだ。特に、すでに凍結という処置をされている以上「あれ、この人、手元の紙を見ながら番号を読み上げている?」と行員に少しでも疑われたら、それでアウトだからだ。毎日数十人の番号を聞いている行員の耳はあなどれない。

 さらに「この上なくナイス」な性格も、銀行員と通話する際には役立つ。

 通常、10分も20分も保留のメロディーと機械音声を聞かされて延々待たされた客は、やっと人間の行員とつながる頃にはすでに不機嫌度マックスだ。

 そんな時に「すみません、何かの手違いで僕のオンラインバンキングが凍結されちゃったんですが、解除していただけますか?」と丁寧に頼む客は、高圧的でない点ですでに「ザ・ベスト」な客のひとりだ。

「この送金さえ無事に済めば、車のローンが払えて、車をゲットできます。本当に助かります」と誠意を持って頼まれれば、同情する行員もいるだろう。

 車社会のアメリカでは、マイカーなしではまともに生きていけない地域が圧倒的に多いことを米住民の誰もが知っているからだ。つまり「車のローン」という名目は、非常に上手く練られた戦略だと言える。

 アメリカの銀行の支店の閉店数は、コロナ禍の2021年1年間だけで2927件に達した。これは過去最高の閉店数だ。支店の数が激減し、営業している支店にも2〜3人ほどしか行員がいないのがアメリカの状況で、日本の銀行とは全く違う。

 リモートでカスタマーセンターの仕事をする行員が圧倒的に増えているのだ。顔が見えない客と音声だけで1日中やりとりし、理不尽に怒鳴られることも多い仕事だ。

 米会計コンサルタント大手クロウの調査では、全米の429銀行の「カスタマーサービス」を担当する行員たちの2022年時の年俸の中央値は3万5700ドル。離職率は23%を超えていた。多くの行員たちが慢性的にストレスにさらされていたはずだ。

■連絡先を自分のメールに変更

 社会保障番号もセキュリティー質問もスラスラと一発で正しく答え、かつ、感じがいい客の口座が凍結されていたら、解除しない理由は、とりあえずないだろう。そして解除した後、行員はこう言ったはずだ。

「今日の私のサービスをお客さまに採点していただくアンケートをお送りしてもいいですか? 念のため、お客さまのメールアドレスを教えていただけますか?」と。

 そしてこれが最後のハードルだ。

 訴状によれば、水原氏は、大谷選手の口座の連絡先として自分の電話番号と、匿名のgmailアドレスを登録していたという。

訴状には、水原氏は2021年9月から違法賭博の胴元を通して賭けにはまり始め、年末にかけて大きく負け続けて借金が膨らんだとあり、この時期、つまり2021年の9月から12月末の間のどこかで、銀行口座の連絡先の電話番号とメールアドレスを大谷選手のものから自分のものに変更したと銀行の記録にあった、とある。

 さらに、このgmailアドレスは、大谷選手が使っている本物のメールアドレスと「フォーマットと数字が似ている」という。

 英文字と数字の並びが酷似していて、ぱっと見には同じに見えるように工夫したのだろう。

 メールアドレスの確認という最後のハードルを無事に越えながら、ほっとした水原氏はこう答えたかもしれない。

「もちろんですよ。本当に助かりました。アンケートには満点の10点を付けておきますね」と。

 終身雇用など存在しないアメリカで、銀行ヒエラルキーの下層で働くカスタマーサービスの行員たちにとって「客のアンケートの評価点」の威力は極めて大きい。客から10点満点の評価を得た行員は、上司にも評価されやすい。

 一方、凍結の判断を下し犯罪を未然に防いだ最初の行員には水原氏は「1点」もしくは「0点」の評価をつけたかもしれない。低評価がついた行員は正しいことをしたのに報われないばかりか、その評価が仇(あだ)となって失職する可能性もゼロではない。

 結局、凍結が解除された後の2月4日ごろには、水原氏は銀行Aの3人目の行員と電話で話し、新規の30万ドルの送金のためのチェックと確認を受けている。

 用意周到に嘘をつき通してきた水原氏の唯一の計算ミスは、大谷選手になりすましたこれらの会話の一部始終が、銀行によって録音されていたことだ。

「お客さまとの会話は録音されている可能性があります」という毎回必ず流れる機械音声のフレーズは、それ自体がすでに全ての客にとって定番のBGMと化してしまっており、うっかり聞き流していたのかもしれない。

 芸術的な嘘のテクニックと、この上なくナイスな性格。

 最強なはずのこの2つのコラボが破綻した。

■社会保障番号を奪われる恐怖

 だが、大谷選手にとってのホラーはまだ終わっていない。

 水原氏が大谷選手の社会保障番号を暗記している可能性があるからだ。

 暗記していれば、いつか将来、それを使ってみたいという誘惑に駆られるかもしれない。

 社会保障番号があれば、アメリカでは不動産購入が可能で、ローンも組め、クレジットカードも簡単に作れる。筆者もかつてID窃盗の被害に遭った経験があるが、知らないうちに勝手にストア・クレジットカードを作られ、AT&Tの電話を設置され、ネットで大量の衣類を購入されていた。

 幸い、犯人が使った下4桁の番号の組み合わせが微妙に違っていたことが判明し、犯罪だと証明できたが、もしそっくり9桁そのままを盗まれていたら、ローンを組まれていたかもしれないし、何より、他人が自分の番号を持っていたら、自分を自分だと証明できない可能性がある。

 さらにアンダーグラウンドで社会保障番号が売買される犯罪がカリフォルニア州では特に多い。

 一部の特例を除いて、社会保障番号は生涯変更できないが、大谷選手のケースは、この特例に当てはまるかもしれない。

 塀の中でこの番号が流通する前に、手を打った方がいいかもしれない。

(ジャーナリスト・長野美穂=ロサンゼルス)

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