抗議の群衆は数千人規模に 2022年11月

「米国に死を!」
 2021年、イラン国内で反米感情が高まるなか、米国と敵対する姿勢を貫くライシが大統領になった。2020年4月から2023年1月まで朝日新聞テヘラン支局長を務めた飯島健太氏は、著書『「悪の枢軸」イランの正体』のなかで、イランの人々の米国に対する憎悪を詳細に記している。なぜイランの反米感情は収まらないのか? 歴史を遡り、『「悪の枢軸」イランの正体』から一部を抜粋して解説する。
 

■イラン=悪の国?

 2001年9月11日、米国で同時多発テロが起きた。そして、2002年1月29日に大統領のジョージ・W・ブッシュが一般教書演説で、イランをイラクや北朝鮮とまとめてこう呼んだのである。

「悪の枢軸」

 ブッシュによると、理由はこうだ。

「イランは選挙で選ばれてもいない少数の権力者が、自由を求める国民を抑圧している。一方で、積極的に大量破壊兵器を追い求めていて、テロを輸出している」

 そのうえで、イランはイラクや北朝鮮とともに世界の平和を脅かす「悪の枢軸」を構成していると訴えたのだ。米国の国内では党派を問わず、イランは「敵」であり、「ならず者国家」や「テロ支援国家」と見なされることがある。イランのイスラム革命体制を潰したいという意見もある。また、米国と友好な関係を持つイスラエルはイランと対立していて、イランを脅威と見なしている。米政界に影響力を持つ「イスラエル・ロビー」のような政治団体の存在も大きい。

 「悪」と断じることは、こうした「反イラン」の国や人びとの声に応じることになった。そして、イランに非難の声を浴びせて圧力をかけることは「正義」になったのだ。

 一方、イランの立場で見ると、「悪の枢軸」は言いがかりに過ぎなかった。イランはこの時、米国との関係を改善しようと動いていて、米国が9.11事件のあとに掲げた「テロとの戦い」には少なからず協力していたのである。イラン側のこうした事情は結局のところ、無視されることになり、米国に裏切られたという憎悪に繋がっていった。

■米国大使館人質事件の記念式典

 第8代大統領に就任したエブラヒム・ライシは米国と敵対する姿勢を貫くようになった。そして、2022年11月の演説でライシは、「反米」発言を繰り返した。演説があった場所はテヘラン中心部にいまも残る旧米国大使館の建物前で、43年前に起きた事件の記念式典の場だった。

 ここで、歴史的な出来事となる事件について簡単に触れておきたい。

 イランで革命が成立した1979年2月。その10月、すでに国外に逃れていたパーレビ国王を米国が受け入れた。イラン側は国王の引き渡しを求めたが、米国は応じなかった。そこで、疑念が生じる。 

 米国は再び国王を担ぎ上げ、革命をひっくり返すのではないか—。

 そして、11月4日、革命を主導したイスラム法学者ルーホッラー・ホメイニに忠誠を誓う約500人の学生たちが米国大使館に侵入して、「スパイ」と見なした米国の外交官ら52人を人質に取ったのだ。翌1980年4月、米国とイランは断交。人質が解放されたのは、事件から444日後の1981年1月だった。

 旧大使館の建物は薄いクリーム色の壁と茶色のレンガ造りで、いまでも当時のままのように見えた。しかし、内部は「米国スパイの巣窟博物館」に変わっていて、米国がイランで活動していた「痕跡」が見られ、展示物にはデジタルデータの暗号化や解読に使われた機械をはじめ、「機密」と書かれた文書がある。

 敷地を囲う壁一面には、米国を揶揄する絵が何枚も描かれていた。「自由の女神像」のイラストは「女神」の顔が骸骨で、突き上げた右腕はもがれている。米国の評判を落とそうとする狙いが見えてくるようだった。

■「米国に死を!」

 米国大使館人質事件の記念式典が行われた2022年11月4日。午前10時すぎ、大使館の前を通る四車線の直線道路に参加者が続々と集まりはじめ、1時間もすると数千人規模に膨らんだ。私は、記者やカメラマンが使う高さ3メートルのやぐらの上に立って群衆を見渡した。男性はひげを生やし、黒っぽい服装をしている人たちが多い。女性は黒のヒジャブやチャドルで髪の毛や全身を隠している。

 集まった人たちの手にはイランの国旗の他、最高指導者ハメネイや米軍に暗殺されたイスラム革命防衛隊の司令官、ガセム・ソレイマニの肖像画を持っている。

 旧米国大使館の前に演台が設けられていて、青地に赤と白抜きの文字で「米国に死を」という意味の3つの単語が英語とペルシャ語で書かれている。私が構えた200ミリの望遠レンズに、演台に近づくライシの姿が映り込んだ。ライシはマイクを前に話しはじめると、米国を批判するところで一気に感情を高ぶらせ、縁なしメガネの奥の目を見開いた。

 「米国による犯罪リストの一部を挙げてみよう」と切り出し、続けた。         

 「米国は世界で300以上の戦争に参加し、62カ国に対するクーデターを仕掛けた。ヒロシマとナガサキに対する原爆の投下という犯罪は唯一、米国が実行したことだ」  

 ライシの甲高い声を遮るように、興奮した群衆は何度も「米国に死を!」とリズムに合わせて声を上げた。原爆投下の他に挙げた事例は具体的に何を指しているのか、私にはよく分からなかった。米国がひどいことをしているという印象を植え付ける狙いだったのだろう。

 一方で、イランには米国によるクーデターを起こされた過去が確かにあり、いまでも米国に抱く不信を象徴する事件として受け止められている。

 きっかけは、石油をめぐる問題だった。

 歴史的にイラン(当時の国名はペルシャ)は1856〜57年の戦争で英国に敗れたあと、南部を中心に占領され、しばらくの間、英国の強い支配下に置かれていた。1908年5月にイランで初めて大規模な油田が発見された際も、採掘や石油の販売といった利権を英国に握られた。

 1951年4月に国会議員から首相となったモハンマド・モサデグが主導し、英国から利権を取り戻す目的で石油産業の国有化を決めた。これに対して英国は猛反発し、さらに、米国も対応に乗り出した。米国は、英国とモサデグ政権の間で高まる緊張を放置できない危険な状態だと受け止めたのだ。また、米国はソ連の封じ込めを図っていて、モサデグ政権に近づく共産主義勢力を警戒していた。

 ここで米英は、モサデグの追放で一致する。

 1953年8月だった。米国の中央情報局(CIA)と英国の秘密情報部(SIS)の計画に基づくクーデターが成功した。モサデグは逮捕され、同政権は崩壊した。 イランはこの事件を挙げ、米国が掲げる民主主義を「偽善」だと非難し、信頼できない理由のひとつに挙げているのである。

 ライシが大統領になったことは米・イランの間にとどまらず、世界にとっても新たな問題を生んでいくことになる。