定例会見に臨む東京都の小池百合子知事=2024年3月8日

 作家・北原みのりさんの連載「おんなの話はありがたい」。今回は小池百合子と権力について。

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「今度こそダメだね。もう言い逃れできないね」

 近所の書店で最新の「文藝春秋」を買った友人が、レジ越しに顔見知りの書店員にそう言われたそうだ。都知事の学歴詐称疑惑である。側近であった小島敏郎さんが都知事の疑惑について「文藝春秋」で語り、日本外国特派員協会で記者会見まで開いた。ここまできたら「もう言い逃れできないね」というのは、庶民のフツーの感覚だろう。それでも、今の時点で多くのメディアは「すん」としている。いったい、小池百合子さんは何に守られているというのだろう。

 私が小池さんにもつ感情は“モヤモヤ”の一言につきる。“モヤモヤ”とは、いくら考えても対象物への理解の解像度があがる予感がしないときに味わう中途半端な諦念感情だ。小池さんへのモヤモヤは相当なのだが、それは「小池百合子」という名は今後、日本の女性史で欠かせない人として記録されていくから、に尽きるかもしれない。なにしろ小池さんほど「女性初」の冠を持っている女性はいないのだ。女性初の自民党総裁選出馬、女性初の防衛大臣、女性初の都知事……最高権力周辺での“女性初”を小池さんは次々に手にしてきた。 “女性初の総理大臣”を手に入れる可能性だっていまだにゼロじゃない。

 超男社会の政界で“女性初”を手に入れるのがどれほど困難なことなのかを、私たちは遠巻きに見てきた。野田聖子さんや田中真紀子さんなど、政治家として恵まれたスタートを切り、人気も実力も人脈も地盤も資金もある女性たちであっても、権力の中枢に近づく瞬間に足を掬われる、男に裏切られる、組織に傷つけられてきた。一方、小池さんは手痛い目にあいながらもその傷も含めて昇り続けている。男尊社会で女はどのように権力の中枢に近づき、どのようにそれを手に入れるのか。高邁な志と実直な人柄だけでは近づけない日本の天辺は、どのような女に拓かれているのか。今の日本で、「女性と権力」について考えるときに小池さんほど適格な人材はいない。

首相官邸で岸田文雄首相(右)と面会する小池百合子・東京都知事=2024年2月2日

 先日、久しぶりに都知事記者会見を見た。ゴジラをテーマに都庁の壁面をプロジェクションマッピングすることについて時間が費やされた会見だったが、衝撃だったのは能登半島と愛媛・高知の地震を受け、東京の対策を尋ねる朝日新聞記者の問いへの答えだ。とても短い回答だったので、テキスト版の全文を掲載する。

「はい、あれ夜ですね、11時過ぎだったかと思いますけれども。今度は愛媛、高知での地震ということで、まず被災された方々にお見舞いを申し上げます。そして何よりも元旦の能登半島地震は、未だに水道、道路など、復旧・復興に向けた段階でございます。改めて、あれは震度6弱ですけれども、今回の愛媛と高知でありますけれども、首都直下地震ということに備えて、改めてTOKYO強靭化プロジェクトを、もっとスピーディーに進めていく方法はないだろうか。そしてまた、耐震化を進めることについても、よりスピード化を図っていくということで、いつ起こるか分かりませんので、また都民の皆様方にも日頃からの備えを徹底していただくということに尽きるかと思います。しっかりと努めてまいりたいと思います」

「学歴詐称疑惑についてどう答えるのかしら」と野次馬的に会見を見ていた私は、それどころじゃねーよ!と怖くなった。中身ゼロ回答である。小池さん都政の間は揺れませんように……と祈る思いだ。だいたい8年前の公約だった電柱地中化計画はどうした。我が家の前では数年前まで電柱地中化工事が行われていたが、いまだに埋まっていない。一度工事の人に「いつ終わるんですか」と聞くと「わからない」という答えが返ってきたときに、小池さんは本気ではないのだと理解した。

 かけ声は立派だけど中身はない。それが小池さんの都政。都民としての実感である。そしてそれは小池さんの生き方のようにも見える。見た目は立派、かけ声に説得力はあるが、突き詰めれば中身がない。

 権力に近いところにいく女性を「見た目は女だけど中身はオジサン」と批判する人は多い。それでも私は小池さんは「中身はオジサン」の権力者ではないと考える。小池さんは“女として”、男が女に持つ幻想や男の弱みをよく理解し、その幻想を差し出してあげられる力がある女性だ。その時々に男が求めているものを的確に差し出し、フツーの男は怖くてやらない(中身がオジサンの女もやらない)絶対権力者批判を敢えて絶妙のタイミングで行い、そのことによって権力を自らの手に収め、男たちを恐怖させ、女性票も手に入れる。そんなふうに小池さんは人々の欲望を生きてきたように見える。そもそも1970年代にカイロ大学を首席で卒業した国際派の日本人女性がいた……という物語は、小池さんの自己顕示欲からはじまった嘘だったかもしれないが、そういう人が“いてほしい”という当時の日本社会の欲望にもマッチしていたものだったのかもしれない。

 30歳の小池さんが記した『振り袖、ピラミッドを登る』を読むと、エジプトでの生活が活き活きした筆致で描かれている。特に生理について書かれた章は、女性史の貴重な記録としてついつい読み込んでしまう。“処女性を大切にする”というエジプトの女性に対し、当時発売されたばかりのタンポンを積極的に使い、エジプト女性たちに「女性の解放につながる」と薦める若い小池さんの心意気に私は心から共感する。女の実感が書かれている箇所は、“カイロ大学時代”のふんわりしたエピソードとはまるで違う鮮明度で読者に響く。エピソードの達人でもある小池さんは文筆家としても成功したのではないかと思うほどに。

 改めて小池さんは政治家になるべき人だったのだろうかと考えさせられる。小池さんが手にした権力は、女性に希望を与えただろうか。男たちの幻想が投影されている小池さんが手にした「女性初」は、眩しさよりも“まがまがしさ”が先に立つように見えるのは、私だけだろうか。