「今、建築にできることは何か」。アトリエで思索する山崎は、建築に託された夢や希望と向き合い続ける(撮影/植田真紗美)

 建築家、山崎健太郎。「52間の縁側」は、多世代が交流できるようにと、長い縁側をつくったデイサービス施設。この建物が複数の建築賞を受賞した。設計を担ったのが山崎健太郎。そこに集まる人たちがどうしたらその人らしくいられるかを考え抜き、建築と向き合う。何度も現場に足を運び、人の声に耳を傾ける。高齢者も障害者も、わけへだてなく暮らせる社会になればいいと願う。

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 竹林に囲まれた庭には池があり、橋のように長い縁側が一直線に続く木造家屋があった。縁側で寛(くつろ)ぐ人、赤ちゃんを抱いたママの姿も。陽当たりのいい居間では高齢の人たちが思い思いに過ごし、ぽつんと佇(たたず)む少年もいる。庭では子どもが走り回り、小屋のヤギはのんびり草を食(は)んでいて……。

 いったい何のための建物なのか、初めて訪れたときは不思議な空間に迷い込んだようだった。千葉県八千代市の近郊にひっそり立つ「52間の縁側」。地図にも載っていないこの建物が、今、建築界で話題になっている。2023年度のグッドデザイン大賞、JIA日本建築大賞に続き、今年4月には日本建築学会賞を受賞。同一作品で史上初の3賞同時受賞という快挙を遂げた。それでも、設計を手がけた山崎健太郎(やまざきけんたろう・47)は淡々と顧みる。

「自分の作品という感覚はまったくないんです。ここに関わる人たちの思いが込められ、皆に待ち望まれていたものだったから、僕もその一員となって、とにかく一生懸命やってきただけなので」

 2022年12月にオープンした「52間の縁側」は高齢者のためのデイサービス施設だ。このプロジェクトは宅老所「いしいさん家」を運営する石井英寿(49)からの依頼で始まった。石井は、ありのままにその人らしく暮らせる介護を実践する人。さらに地域の住民と繋(つな)がり、高齢者から子どもまで、障害がある人や不登校の子など様々な人たちが共に過ごせる場所を作りたいと思っていた。

7年あまりを費やした「52間の縁側」。実は、計画段階では52間だったが、長い設計期間中に隣接する古民家を借りられることになり、一部の機能を古民家に移すことで最終的には「42間」となった(撮影/植田真紗美)

 敷地は南北に細長く、山崎は多世代が交流する空間を考えたとき、「縁側」を思い描く。52間(約95メートル)の縁側があり、どこからでも出入りできる細長い木造家屋。そこにカフェと工房、リビング、離れのような座敷と浴室も配置する。設計図を見た石井は「いいね!」と即答したという。

「昔の民家には縁側があって、近所の人がおしゃべりしたり、子どもが遊びに来たり。そんな内と外との境があいまいで開かれた場所にしたかった。細長い建物は少し使い勝手が悪いかもしれないけれど、不便だからこそ言葉を交わしながら助け合う場面が増えていく。コミュニケーションが自然に生まれる場になればと思ったんです」(石井)

■「52間の縁側」の原点は実家の「縁側」の記憶だった

 だが、行く先には次々に困難が待ち受けていた。石井は資金調達に苦戦し、銀行から融資が下りても、測量ミスや埋蔵文化財が見つかって延期に。コロナ禍では木材不足で高騰するウッドショックが起き、木材確保が滞って工事が止まってしまう。

 石井は「心折れそうになって、健太郎さんの事務所へ駆け込んで泣いたことも」と照れるが、山崎は「大丈夫だよ。ちゃんと思いがあれば絶対にうまくやれる」と。手弁当で現場へ通い、泥だらけになって庭造りにも励んだ。完成まで7年あまり。山崎は半ば「やけくそだった」と苦笑するが、自身の原点に立ち戻る日々でもあったようだ。

「52間の縁側」に結びつく記憶は実家の「縁側」にあった。千葉の佐倉で育ち、両親と祖母、弟と暮らした家。子どもの頃は縁側から出入りし、自分と社会を繋げてくれたのが縁側だった。

 どうして建築の道へと尋ねると、実は大学時代までの記憶がほとんど途切れているという。絵を描くのが好きで、消去法のように建築学科へ。自由にデザインを考えられる設計を専攻したが、建築家としての夢や目標も見えていなかった。

 過去の記憶が鮮明になるのは大学院1年目。米サンフランシスコでアーバンデザインのワークショップに参加した。学生たちと街を歩き、意見を交わす。山崎は新鮮で楽しかったと懐かしむ。

「大学では課題を黙々とこなし、周りと競うようにやっていたけれど、いろんな人と話しながら作り上げることはすごく創造的だと思ったんです」

今年2月、日本女子大学・住居学科の学生たちが卒業制作を発表する「林雅子賞」公開選定会で。選定委員長を務める山崎は他の選定委員と共に建築の在り方を問いかけていく(撮影/植田真紗美)

 都市設計を志して就職したのが、六本木ヒルズなどを手がけた大手設計事務所だ。山崎は2年目に一級建築士に合格すると、一人で設計を任される。山崎の妻で、当時、同じプロジェクトに携わった川島由梨(44)は、その仕事ぶりをこう語る。

「基本設計から、とにかく人より時間をかけてやる努力を惜しまない人。スケジュールを気遣う上司にはそこまでやらなくても……と言われたこともありました。でも、彼は時間が迫っていても、複数の可能性を一つずつ確かめ、最適な答えが出るまで粘り強くやっていた。良いものを作ろうと、ずっとあがいているように見えました」

 現場監理を任された巨額のプロジェクトでは、途中で大手ゼネコンが倒産する危機にも直面した。民事再生で救済されたが、ゼネコンの所長は経費を抑えようと、変更を次々要求し、「設計が悪いから」と理不尽に押し通す。品質管理を担う若い設計者の意見は受け入れられず、「すごく悔しくて、よく飲んだくれていた」と、山崎は苦笑する。

 大規模なプロジェクトに挑戦する醍醐味(だいごみ)は経験したが、ワクワクしなくなっていく。資本の原理のもと、利益回収を追求する施主とゼネコンの板挟みになる日々。ひらめきや好奇心も摩耗していた。辞め時かと思い始めたのは30代に入った頃。折しも実家を建て替える話が出る。山崎は仕事の合間に設計に取り組もうと決めた。

東京・東日本橋にあるアトリエ。週末はこの部屋で一人設計に集中する。旅先で出合った建築、自分の体に沁み込んでいる空間の記憶をたどりながら、模型と向き合う時間がいちばん落ち着くという(撮影/植田真紗美)

 山崎は実家で母の生活を見ていて、気になることがあった。それは、母がいつも風呂場の窓や扉を開け放し、庭を眺めながら湯船に浸(つ)かっていたこと。明るく自由な人だが、陰で抱える苦労も窺(うかが)われた。同居していた姑(しゅうとめ)が厳しい人だったので、母は庭に好きな草花を植える楽しみも遠慮して生きてきたのだ。ようやく姑に仕える務めを終えた母のために設計したのが「庭の中の家」だった。

■沖縄の文化に根ざすよう 「糸満漁民食堂」を設計

 その家はキッチン、居間、バスルーム、書斎と、それぞれ扉がなくひと続きになった平屋で、いたるところに大きな窓がある。庭に植えた花を眺めながら、料理をしたり、本を読んだり、お風呂に入ったり……広い庭の中に住むような住宅だ。母の礼子(72)は黙って、息子に任せるつもりでいた。

「健太郎は2年ほど一緒に暮らすなかで、私の生き方も感じていたみたいです。昔の家は開放的じゃなくて庭はすごく遠かったけれど、私はいつでも扉を開けておきたかったし、ドアや壁もぶち壊したかった(笑)。好きな庭に横たわって最期を迎えられたら、それで私は本望だから」

仕事帰りに立ち寄る浅草橋の行きつけのバー。飲み仲間には「健太郎さんはただのおっさん。偉そうじゃないし、おおらかでフレンドリーな人」と慕われている(撮影/植田真紗美)

 父の龍太郎(76)は、「設計図を見た時はびっくりしました。反発すると、一生懸命考えてくれたのに申し訳ない。とりあえず『うん』と預かりましたが、この家で生き方も変わりましたよ(笑)」

 完成した新居で、母はガーデニングを存分に楽しみ、父はアルトサックスを吹き、ボランティア活動にも励む。山崎にとっては、建築家として新たな生き方に転じる「リハビリ」になった。

 2008年、山崎は独立し、設計事務所を設立。リーマンショックで建築業界は低迷していたが、友人の事務所の内装など小さな仕事も夢中で取り組む。やがて舞い込んだのが沖縄の糸満でレストランを作る話だ。施主は同世代の男性で「カッコいい建物にしてほしい」と頼まれたが、ぴんと来ない。なぜ借金までして店を作るのかと。すると彼は漁民の孫で、衰退する漁民文化を憂えていた。食を通して沖縄の文化を伝えたいのだと言う。

 ならば、単にカッコよさを求めるのではなく、もっと沖縄の風土や文化に根ざした建築を表現できないか。山崎が考えたのは、かつて漁民が琉球石灰岩を手積みして漁場を作ったように、石を積んだ素朴な建物。皆で壁の石積みに取り組んだ。

 この「糸満漁民食堂」で2013年度グッドデザイン賞を受賞。キャリアのスタートを確信する転機だった。当時、多くの建築家が東日本大震災を境に建築の在り方を模索していた。社会で求められる建築とはどのようなものか……山崎は人の暮らしや生き方を支える建築を追い求めていく。

(文中敬称略)(文・歌代幸子)

※記事の続きはAERA 2024年5月27日号でご覧いただけます