巨人時代の田辺徳雄

 トレードなどで複数の球団を渡り歩いた選手は、活躍時の所属球団のイメージが強くなる。その一方で、在籍期間が短く、活躍できずに終わった球団では、チームに所属していた事実すら、ファンに忘れられがちだ。

 移籍後に新天地で大きく飛躍した選手は、往々にして前の所属球団での印象が薄くなる。

 代表的な一人が、ヤクルト、ソフトバンクでユーティリティープレーヤーとして活躍した川島慶三だ。

 ヤクルト時代は正遊撃手になった2009年に主に1、2番打者として初めて規定打席に達し、打率.255、12本塁打、43打点を記録。ソフトバンク移籍後も内野の全ポジションと外野も守れる貴重なスーパーサブとして6度の日本一に貢献した。

 これに対し、最初の球団・日本ハム時代を覚えている人は少ないはずだ。2年しか在籍していないうえに、1年目は出場24試合、翌07年も春季キャンプで右肩を痛めた影響で10試合しか出場いないからだ。

 だが、同年オフ、日本ハムGM時代から川島を高く評価していたヤクルト・高田繁監督が3対3の交換トレードで獲得し、移籍1年目からレギュラーで起用したことにより、野球人生が大きく開けた。川島自身も「(ヤクルト移籍は)チャンスだと思った」と回想している。

 同様に、2000年代に広島、巨人でユーティリティープレーヤーとして活躍した木村拓也も、最初に入団した日本ハムでは出場機会に恵まれず、印象は薄い。

 次は逆のパターン。現役晩年を迎えた選手が、最後の1年だけ在籍した球団のイメージも薄れがちだ。

 前出の川島も、ソフトバンクを戦力外になったあと、22年に楽天でプレーしているが、出場12試合の打率.136、1本塁打に終わっているので、“楽天・川島”のプレーを覚えている人は多くないはずだ。

 ダイエー、日本ハム、阪神の3球団で通算129勝22セーブを挙げた下柳剛も、現役最終年の12年は、楽天でプレーしている。

 11年オフ、阪神を戦力外になった43歳の左腕に声をかけたのは、くしくも阪神監督時代に日本ハムから下柳を獲得した楽天・星野仙一監督だった。

 「投手陣の“生きた手本”に」と見込まれ、テストを経て入団が決まる。「あきらめず、打たれても打たれてもしつこく勝ちに向かっていく姿を見てほしいです」と意欲を新たにした下柳だったが、4月1日のロッテ戦から4試合に先発し、0勝2敗に終わると、同26日に登録抹消。そのまま1軍に復帰することなく、10月に戦力外通告を受けた(翌13年3月に引退発表)。

 日本ハム時代の12年にリーグ2位の14勝をマーク、最優秀防御率(1.71)にも輝き、チームの優勝に貢献した吉川光夫も、NPB最終年に1年だけ在籍した西武のイメージは薄い。

 16年オフに2対2の交換トレードで巨人に移籍した吉川は、19年シーズン途中、2対2のトレードで古巣・日本ハム復帰も、20年は登板5試合に終わった。

 だが、深刻な左腕不足に悩む西武・辻発彦監督が「のどから手が出るほど欲しかった」と熱望し、金銭トレードで移籍が決まる。

「自分にとってチャンス。真っすぐを軸として投げられるようにしたい」と復活を誓った吉川だったが、翌21年は登板5試合で防御率16.62に終わり、1年で戦力外に。その後、BC栃木で現役を続けている。

 後の監督経験者であっても、在籍していた当時の印象が薄い球団がある。

 黄金時代の西武の遊撃手・田辺徳雄は、99年オフに戦力外通告を受けたが、「力が落ちたとは思っていない」と現役続行を望み、右打者の補強を急務とする巨人に金銭トレードで移籍した。

 心機一転登録名も「路朗」に変えて内野のポジション獲りに挑んだが、7打数1安打と結果を出せず、2度目の戦力外通告を受けて引退した。その後、西武のコーチ時代の14年シーズン途中、伊原春樹監督の休養に伴い、監督代行に就任。翌15年から2シーズン監督を務めた。これだけ西武のイメージが強いと、たった1年、7試合しか出場していない巨人時代の印象が希薄になるのも無理はない。

 オリックス・中嶋聡監督も、29年間の現役生活でオリックス(阪急)、西武、日本ハムと「パ・リーグひと筋」のイメージが強いが、実は03年の1シーズンだけ横浜に在籍している。

 97年オフ、メジャー移籍交渉がまとまらず、西武にFA移籍した中嶋は、伊東勤から正捕手の座を奪うことができないまま、02年オフ、2対2の交換トレードで横浜へ。相川亮二、中村武志と正捕手争いを繰り広げ、03年の開幕戦から6試合連続先発マスクをかぶったが、故障もあって、出場19試合の打率.214に終わる。

 翌04年、右肘手術の山田勝彦に代わるベテラン捕手を求めていた日本ハムに金銭トレードで移籍すると、コーチ兼任時代も含めて、在籍4球団で最長の12年間現役を続けた。16年間と12年間のパ・リーグ生活の間に1年だけセ・リーグが挟まっているのだから、“横浜・中嶋”の記憶がおぼろげになっても不思議ではない。

 ちなみに中嶋監督は、横浜時代に同球団のキャンペーンガールをしていた現夫人と知り合い、日本ハム移籍後の04年に結婚。1年しか在籍していない球団で生涯の伴侶と巡り合ったのも、不思議なご縁と言えるだろう。(文・久保田龍雄)