田尾安志氏はリトルリーグで全国準V…高校進学時は多くの強豪から誘い

 日米通算4367安打を誇るイチロー氏(マリナーズ会長付き特別補佐兼インストラクター)が、少年時代に憧れていたのが元中日外野手の田尾安志氏だ。1976年の新人王で、1982年から3年連続でセ・リーグ最多安打(当時は表彰なし)をマークするなど、中日、西武、阪神の3球団で通算1560安打を放ち、引退後は楽天の初代監督も務めた。そんな田尾氏の野球人生は山あり谷あり。高校進学の際には「中学の担任の先生にちょっと騙されたかなと思った」という。

 大阪育ちの田尾氏は「小学校6年生(1965年)の時に、今の京セラドームの近くなんですけど、大阪市西区にリトルリーグができて、ピックアップされた」と話す。小学5、6年生と9月以降生まれの中学1年生が対象のリトルリーグ「大阪西」が誕生した年に田尾氏にも声がかかり、1期生になった。「ソフトボールや野球がうまいというのが、どこかからか伝わったんでしょうね。それで選ばれたんです」。

 小学3、4年の頃は毎日近くの公園に集まってソフトボールで遊んでいた。「小学5年生の秋には、町に軟式野球チームがあるのを知って、友達も入っていたので仲間に入れてもらいました。土日だけですけどね」。そんな“実績”によって選抜された田尾氏はファーストでレギュラーとなり、関西大会優勝、全国大会準優勝を経験した。「その時は中学1年生がメイン。6年生だった僕は確か2番(打者)だったかなぁ」と懐かしそうに振り返った。

 1954年1月8日生まれの田尾氏は中学1年まで硬式の「大阪西」でプレーするとともに、中学の軟式野球部にも入部した。「リトルをやっている期間は硬式と軟式と両方やっていました。中学の野球部では3年春に大阪市でベスト4まで行ったと思う。僕は1番ファーストが多かった。リリーフでピッチャーも、ちょっとやりましたが、本格的にピッチャーの練習をしたことはなかったですね」。高校進学時には複数の強豪私立高校から誘われたという。

公立の泉尾高に進学…野球部は「あってないようなチーム」

「北陽が一番来ていましたね。でも、ウチのおふくろには、私立だと故障したときにつぶしがきかないという気持ちがあったみたいで『できれば公立に行ってほしい』って。それで公立に行くことにしました」。公立高校の候補は市岡と泉尾(いずお)。「市岡の方がちょっと近かったのと頭のレベルも高かったので、そっちに行きたいと思ったんですが、担任の先生に『高校でも野球を続けるのなら市岡は(勉強で)ついていくのが大変だぞ』と言われたんです」。

 勉強のことを考えての先生からのアドバイスで「泉尾にも野球部はありますとのことだったので受けたんですよ」と田尾氏は思い返す。合格の自信もあった。「実力試験で志望校を泉尾にしたら1番だったんです」。だが、受験後に想定外の現実が待っていた。「泉尾を受けた日に野球部の練習を見に行ったら、2年生が2人だけでキャッチボールをしていたんですよ」とまず戸惑った。さらに驚きの光景は続いた。

「あれ、今日は2人だけかと思いながら『今度野球部に入ろうと思っています。キャッチボールさせてください』といって、やらせてもらったんですけど、僕が速い球を投げると先輩は捕れないんです。スルーしちゃうんですよ。ウワッ、これはひどいなって思いましたね。あの時は中学の担任の先生にちょっと、これ騙されたかなと思ったくらいでした」。合格後、実際に入部してみたら、またびっくりだった。

「2年生2人と3年生3人の5人しかいなかったんですよ。野球部はあってないようなチームだったんです」。田尾氏は高校野球の聖地・甲子園出場を夢見ていたわけではない。「それを考えていたら私立に行っていましたよ」というが「高校で野球を楽しもうというところよりはもうちょっと上の意識はあったと思う」とも話す。だから当時の泉尾野球部の厳しい現実を目の当たりにして、逆に燃えた。ドラマチックな高校時代がスタートした。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)