元西武の高木大成氏は4年のキャンプで足首靱帯を断裂「骨が折れたと思った」

「レオのプリンス」「レオの貴公子」の愛称で親しまれた高木大成氏(株式会社埼玉西武ライオンズ事業部部長)は西武で10年間プレーした。捕手から一塁に転向した2年目からレギュラーに定着したが、1998年オフから実に6年間で4度、6か所の手術を受けるなど怪我に苦しみ「野球が嫌いになりそうだった」と辛かった胸中を吐露した。

 1995年に慶大から西武を逆指名し、捕手としてドラフト1位で入団した高木氏は、2年目の1997年に一塁手へ転向。持ち前の打力を発揮し、同年に自己最高の打率.295、翌年にはともに自己最多の17本塁打84打点をマーク。いずれの年も一塁手部門でゴールデングラブ賞を受賞した。

 いよいよプロ野球選手として軌道に乗り始めたと思われたが、3年目の1998年オフに右肘の遊離軟骨除去手術を受けると、徐々に“流れ”が変わっていった。迎えた翌年、4年目の春季キャンプが始まったばかりの2日目にアクシデントに見舞われた。

「内野ノックで一、二塁間のゴロを捕って踏ん張ったときに右足が『バキッ!』と。骨が折れたと思った」。足首の靱帯断裂で再び手術することに。シーズン中に復帰したが「靱帯が切れてからは、足の指でずっと土を掴めずに踏ん張れない状態でした。ここからはずっと辛かったですね」。

 復帰後に1軍から声がかかっても「右足を庇っているからいろんなところに影響が出る。成績はもちろんですが、体のバランスや動き的にイマイチの中でずっとやっていました」。110試合に出場し、打率.272を残したが、本塁打は前年の17本から7本に“激減”。歯車が狂い出した。

辛いリハビリが続き「野球が嫌いになりそうでした」

 2000年には本塁でのクロスプレーで相手選手と“衝突”。「左膝の軟骨に亀裂が入りました。当時はコリジョンもなかったですし」。この怪我で手術。出場試合数は新人時代以来、4年ぶりの2桁(94試合)となり、本来のパフォーマンスを取り戻せずに2001年には67試合に減った。

 復活を期した7年目の2002年に再び怪我に襲われる。「オープン戦でファウルを打った時に、右手首の靭帯が一部、骨から剥がれて損傷したんです。手首を固定してプレーを続けたけど調子が上がらない。右手の状態が駄目だと思いながらずっとやっていました」。

 出場機会は減り続けた。尺骨神経の麻痺、血行障害も併発しており「ペットボトルの蓋も開けられない状態。このままじゃ無理」と8年目(2003年)のオフに、症状が少しでも緩和できるようにと右手首、右腕の計3か所を手術した。

 翌2004年、西武は日本一に輝くも高木氏は手術の影響もあり1試合にも出ていなかった。「試合は見ていましたけど、心からは喜べなかったですよね」。結局、1998年から2003年までの6年間で4度、6か所もの手術を経験した。

「筋肉は1度メスを入れると、脳から発信してもちゃんと動かないんです。信号が届かないから。届かせることは本当に大変で、リハビリは辛かったです。同じことの繰り返し、繰り返しで。普通にできていたことができなくなって、もどかしい。野球が嫌いになりそうでした。リハビリが調子いい日があっても、眠ったら翌日、元に戻っている気がして寝るのが怖かったです。頑張って、チームに戻ってもまた怪我をして……心が折れそうでした」

 壮絶な時期を振り返った。もう1度活躍することを目標にリハビリに励んでいたが、出場機会ゼロだった2004年に続き、2005年は自己最少のわずか13試合の出場。そのままオフに戦力外通告を受けた。10年目の“プリンス”に待ち受けていた、あまりに残酷な現実だった。(湯浅大 / Dai Yuasa)