【がんと向き合い生きていく】特別寄稿

 2年ほど前に大腸がんの手術を受けたDさん(73歳・男性)のお話です。

 定期の病院受診のため、寒いなか朝早く家を出ました。隣の空き家の庭の木が赤く咲き始めていました。「あるじなしとて春な忘れそ、か……」とつぶやいて、駅まで送ってくれる妻の車に乗り込みます。今にも雨か雪が降りそうでしたが、傘はリュックにしまったままです。電車は定刻に来ました。30分弱ほど乗っていつもの駅で降り、今度は傘を差して病院まで歩きました。

 受付の機械に診察券を入れると、予定票が出てきます。まずは採血です。移動してから採血室の前の受付機に診察券を入れたところ、800番台……。相変わらず患者が多い。室内と廊下の椅子に座って、たくさん待っています。今は740番のあたりの方が採血されている。まだまだ待たなければならないのはいつものことです。

 採血室には15ほどのブースがあり、それぞれに採血の技師さんがいます。掲示は「待ち時間20分」となっていました。

 25分を過ぎた頃、立て続けに番号が進みました。「815番の方」と呼ばれ、「はい」と手を挙げてその番号枠に行きます。名前と生年月日、採血試験管のラベルを確認し、右腕をまくりました。「血管がとれにくくてすみません。肘窩の所からなかなかとれないのです」と言うと、技師さんは「はい、見せてください。ん〜そうですね」と答えながら前腕の中ごろを指し、「ここでやってみましょう」と言われました。

「よろしくお願いします。私の血管、逃げるんです。皮膚を引っ張ると、血管が固定されて刺しやすいと思うのですが……」

「ベテランの方ですね。はい、じゃあ刺しますよ」

「はい」

 腕だけあずけて、横を向いていました。

「ごめんなさい。うまくとれません。左腕はどうでしょうか?」

「はい、左を見てみてください」

「ごめんなさい。別の担当に代わります」

「いえいえ、私の血管が悪いのです。硬い血管で逃げるんです。面倒な患者ですみません」

「ここ、圧迫してしっかり止めておきますね」

 採血は3回失敗して、別の担当に代わりました。賢明な判断、さすが大きな病院だと思いました。結局、4回目でやっと採血が完了しました。

 他の患者の3倍以上、時間がかかったみたいでした。日によっては、簡単に1回で済む時と、5回も刺されることもあります。仕方がない。採血する側は恐縮していましたが、他の患者たちはスムーズに進んでいるようでした。

 腕を押さえながら、次は心電図検査室に向かいました。患者が受付の前に数人、奥に数人。いつもより少なめです。

 待っている間に、パジャマを着て車いすに乗った入院患者と思われる方が来られました。自分が入院していた頃を思い出し、「病状は分からないけれど、大変だろうな」と思いました。外来患者は冬支度でたくさん着込んでいるのに、入院患者はパジャマ姿で寒くないのかなとも思いました。

 心電図検査が終わり、次は放射線科へ向かいます。胸部X線検査です。10人ほど待っているようでしたが、10分ほどで呼ばれて、着替えるための個室に入ります。寒い時季は着ているものが多くて面倒だが仕方がない。それでも検査はすぐに終わりました。

 さあ、検査がすべて終わって、診察まで1時間ほどあります。品揃えが充実している病院の売店でサンドイッチと野菜ジュースを買って、他の患者と相席させてもらって昼食をとりました。

 食事を終え、予定時間の30分前には診察室前の壁に設置された画面に自分のバーコードが付いた予定票を示し、診察前に待機する長椅子に座りました。呼び出される患者の番号を気にしながら、自分の順番を待ちます。

「今日の検査結果はどうだっただろうか?」

 前回の定期検査で腫瘍マーカーの数値が悪くなっているのを思い出し、「良くなっていますように」と天に祈りながら、呼び出されるのをじっと待ちます。

 結果はほとんど前回と変わらず、2カ月後に再診となりました。

「また2カ月、病院から解放されて生き延びた……」

 ホッとして家路につきます。帰宅したとき、隣家の庭の木に夕日が当たって、朝よりもさらに赤く見えました。Dさんには、今日の検査結果を祝福してくれているように思えました。

 患者の気持ちは繊細なのです。

(佐々木常雄/東京都立駒込病院名誉院長)