『新生』のその後の人生

『新生』で姪との衝撃的な関係を新聞紙上に発表した藤村は、その後の展開も小説の中に告白していきます。

 小説では主人公の捨吉が渡仏中、姪の節子は男子を産み、3年後に捨吉が帰国すると再びふたりは関係を持つようになります。そして捨吉は節子との関係を公表して世間の裁きを求めようと長編小説を書き始めるのです。捨吉の兄であり節子の父・義雄は捨吉との絶縁を宣言し、長兄の民助とともに節子を台湾へ行かせます。藤村とこま子も小説と同じでした。

『新生』の最後は節子が台湾に向かう日、節子が残していった球根を捨吉が土に埋め、「節子はもう岸本の内部(なか)に居るばかりでなく、庭の土の中にもいた。」という文章で締めくくっています。捨吉は「新生」は約束されたと思うのですが、なんとも都合のいい話ではないでしょうか。

 藤村とこま子のその後の人生はというと、藤村は昭和3年(1928)、56歳の時に24歳年下の編集者・加藤静子と再婚し、初代日本ペンクラブの会長にも就任、太平洋戦争中の昭和18年(1943)8月22日に永眠します。

 一方のこま子は台湾から帰国すると従姉妹を頼って上京し、自由学園を経営していた羽仁家で住み込みの炊事婦となります。その後も家政婦や寮母など職を転々として、10歳年下の学生共産党員・長谷川博と結婚、娘を産みますが離婚し、昭和12年(1937)、行路病者として巣鴨の養老院に収容され新聞を賑わせました。その時すでに静子夫人と再婚していた藤村は50円の見舞金を送ったそうです。