中学時代に山海留学生として東京から鹿児島・口永良部島に渡り、島で得た「ユニークな体験」をバネに、ある夢をかなえた男性がいます。
現在、ニューヨークを拠点に活動するこの男性がかなえた夢とは。
種子島支局の取材です。

4月、鹿児島・屋久島から口永良部島に向かうフェリーに、ひとりの男性の姿がありました。

三上麟太郎さんです。

三上麟太郎さん
「いやー、懐かしい。フェリーに乗ってトビウオが飛んでいるのとか見ると帰ってきたなーと」

東京生まれの三上さんは、今から16年前の中学1年生の時、お母さんと妹と一緒に口永良部島にやってきました。

そのワケはー。

三上麟太郎さん
「一番の大きな理由は、心が疲れてしまったんですね。東京の生活で。いろんなことを完璧にこなさなくてはいけないという自我が生まれて、これに疲れてしまって。それの転地療養の一つとして田舎でゆっくりしてみたらどうかという両親の提案。」

東京の生活で少し疲れた12歳の少年にとって、島の暮らしは強烈でした。

三上麟太郎さん
「すごいところに来たなという感じでしたね。着いたその時から大自然に放り出されたような感覚で」

思い出いっぱいの口永良部島に到着です。

三上麟太郎さん
「ただいまです。感無量ですね、みんなが手振ってくれるのがうれしい」

山口真木さん
「イケメンになって〜
(麟太郎さんは)ひたすら紙のドラムをたたいてて」

そう、三上さんの夢はドラマーになることでした。

三上麟太郎さん
「ダンボールドラムを自作しまして、うっすらと自分がステージに立って演奏しているような自分を思い浮かべながらダンボールたたいてましたね。」

それから15年が経ち、三上さんは、夢を叶えました。

ジャズの本場、ニューヨークの音楽学校や大学でジャズを学び、現在はニューヨーク在住のジャズドラマー、そして作曲家として活動しています。

三上麟太郎さん
「おじゃまします。懐かしい」

世界を舞台に活躍する三上さんを島の人たちは嬉しそうに出迎えます。

三上麟太郎さん
「お久しぶりです。」

三上麟太郎さん
「ドラムとギター持ってきてて、ギターたけしさん上手なんで、ちょっと見てもらったのが何回かありましたよね。」

峯苫健さん
「(将来)ギターに行くのかと思ったが、ドラムだったね」

宿では懐かしいおかみさんが出迎えてくれました。

民宿くちのえらぶ・貴舩裕子さん
「覚えてるよ。(留学当時は)かなり心配したかな。でも、今だから言えるけど心配してないふりをしながら見つめるのがこの島の留学のやり方じゃない」

中学時代の2年間、島の人は山海留学生の三上さんをそっとあたたかく見守っていました。

「釣れたー」

三上麟太郎さん
「自分の音楽を表現するにあたって、口永良部島の存在っていうのは切って離せないものだった。あのとき頑張れたから今頑張れるとか、エラブに恩返ししたいという思いも持ちながらドラムの道を突き進んできたように思います。」

これは2023年9月、三上さんが作曲と演奏を手がけたファーストアルバム「FIRSTFISH」。

実はこのアルバム、三上さんが口永良部島に宛てて作ったアルバムです。

三上麟太郎さん
「僕が書きためていた曲、作曲した曲はエラブの風景だったり、エラブの記憶だったりがインスピレーションになることがとても多くて、これが一つの小さな恩返しになればうれしいとも思ったので」

ほかにも屋久島の町営船、フェリー太陽の汽笛にインスピレーションを受けた「TheWhistle」など、アルバムには口永良部島への感謝の気持ちが込められています。

島で過ごす最後の夜、三上さんは島の人たちと思い出話で盛り上がっていました。

貴舩森さん
「麟太郎がダンボールをドラム代わりにたたきまくって、ボロボロの段ボールを
回収するのが久木山栄一だった」

久木山栄一さん
「あれが、身になっとるんだもんな、おまえのな。」

山口正行さん
「絶えずたたく音がずっと聞こえていて、本当にやることないんかと」

三上さんの次なる夢は、メンバーを連れて口永良部島や離島をめぐる演奏ツアーをすることです。

ジャズミュージシャン、三上麟太郎さんはこれからも心のふるさと、口永良部島の思い出を胸に世界を羽ばたきます。