子どもの頃から、漁に出る度に取れたてのブリやサバ、アジを発泡スチロールいっぱいに入れて持ち帰ってきた父の背中を見てきた。そんな3人がこの春、高校を卒業して漁師としてデビューした。

 ◇3人の父親も「輪島丸」船員

 3人は坂角倖成(こうせい)さん(18)と中村優雅(ゆうが)さん(18)、沖崎瑛大(えいた)さん(18)。大中型巻き漁船団5隻の中の本船「第18輪島丸」(135トン)で漁に出る。

 ほか4隻は、運搬船の第16、第17輪島丸(286トン、260トン)、探索船の第1、第8輪島丸(いずれも99トン)。地元では、この漁船団を「輪島丸」と呼んでいる。

 3人とも石川県輪島市の港町生まれで、3人の父親は輪島丸の船員だ。坂角さんの父はいつも、漁の後に持ち帰った魚を台所で豪快にさばき、家族に振る舞ってくれた。坂角さんは「こんな格好良い漁師になりたい」と憧れていた。

 輪島丸の漁は他の船とは違い、先進的な手法を取り入れている。

 取ったブリを海水入りの水槽で生きたまま港まで運び、水揚げした後に生け締めする。冷水や氷に入れて港まで運ぶこれまでの方法より新鮮な状態で出荷できるので、高い値段で売ることができる。

 販売単価が上がれば漁獲量を抑えられ、操業時間の短縮につながる。持続可能な漁として、巻き網漁業では全国で珍しい試みとされている。3人は、そんな輪島丸の一面にもひかれた。

 坂角さんは「輪島丸なら将来にわたって良い仕事を続けられるのかな」という思いを抱いて、ほかの2人と一緒に船員になることを待ち望んでいた。

 ◇地震で被害、職に就けない懸念も

 ところが、1月に能登半島地震に襲われた。5隻のうち、3隻は金沢港(金沢市)に係留されていたため、津波の影響はなく損傷はなかった。

 残りの2隻がつながれていたのは、甚大な被害が出ていた珠洲(すず)市の蛸島(たこじま)漁港。船員が1月5日ごろに2隻の無事も確認した。

 ただ当時、能登半島の海岸の一部では、地盤が隆起していると報じられていた。港によっては海水が引いて海底がむき出しになり、漁船が岩場に乗っているような状態になっていた。蛸島漁港の海底も隆起して、水深が浅くなっている恐れがあった。

 「船を港から出せんかもしれん」。坂角さんは父からそう言われ「4月から漁師になれず、職に就けないかもしれない」と不安を感じた。

 ◇「相談し合える存在」心強く

 そんな時、心の支えになったのが中村さんと沖崎さんの存在だった。中村さんとは保育所から中学校まで、沖崎さんとは高校まで一緒に育った幼なじみ。坂角さんが不安を口にすると、沖崎さんから「きっと大丈夫や」と励まされた。

 「1人だけなら落ち込んだままだったが、相談し合える存在がいることは、とても心強かった」

 1月下旬ごろ、「港内は隆起している所もあるが、水深が深いままの所もある」と船員が聞き、2隻を港から出した。

 輪島丸の船員は約50人いて、その8割は輪島市内で暮らす。自宅が倒壊して避難生活を強いられたり、片付けに追われたりする船員も多かった。輪島丸での漁が再開できたのは、2月に入ってからだ。

 坂角さんは「今回の地震で漁をできるのが当たり前ではないと再認識した。自分がこうして輪島丸に乗れることに感謝しないといけない」と話す。

 4月から漁師としての道を歩み始めた3人。いざ本船に乗船して、坂角さんは「思ったよりむっちゃ揺れるので船酔いした。念願の漁船で海に出られてうれしい」と笑顔を見せた。

 「自然豊かでおいしい魚を食べられる輪島が大好き。『輪島』の名前が付く船の漁師として自覚を持ち、できるだけ多くの魚を取って古里の人たちに届けたい」。3人の共通した思いだ。【郡悠介】