本庄早稲田駅の誕生秘話

 本庄早稲田駅――。埼玉県北西部の本庄市にある新幹線の駅である。駅名の「早稲田」の3文字は、この駅のユニークな誕生秘話を物語っている。

 2004(平成16)年4月、上越新幹線の駅として開業した。その名前の由来は、多くの人が想像するように早稲田大学にある。世の中には

・都立大学駅
・学芸大学駅

など、実際には「大学が存在しない駅」もあるが、本庄早稲田駅は違う。駅の近くに早稲田大学のキャンパスが広がっている。

 しかし、この駅名にはそれ以上の意味が込められている。それは、

「駅の誕生そのものに早稲田大学が深く関わっていた」

ことを示唆しているのだ。早速、駅名の選定過程を見てみよう。開業前年、本庄市と岡部町、児玉郡の4町1村で組織された新駅名検討委員会は、本庄早稲田のほか、次のいくつかの候補を挙げた。

・本庄児玉
・武蔵本庄
・こだま
・本庄

どれも地域の歴史や特徴を反映した名前だ。しかし、最終的にJR東日本が選んだのは「本庄早稲田」だった。

 本庄市は利根川の向こうに群馬県を臨む。この地域は古くから開かれてきた土地である。平安時代には武蔵七党のひとつである児玉党の館が築かれ、江戸時代には中山道最大の宿場町として栄えた。明治時代には、本庄に遷都してはどうかという議論も起こったほど繁栄していた。

本庄早稲田駅(画像:OpenStreetMap)

駅実現の裏側

 本庄市では上越新幹線の計画が発表される前後から、新幹線駅誘致に向けた運動を始めている。しかし、実現はしなかった。それでも、本庄に新幹線駅ができれば、埼玉県北部だけでなく、群馬県南部の利便性も高くなるとして、県境をまたいで熱心な活動が続いた。1989(平成元)年には、埼玉県・群馬県の31市町村で

「上越新幹線本庄新駅設置促進期成同盟会」

が発足している。しかし、JR東日本は高崎、熊谷それぞれとの駅間が約20kmとなるため運行技術的に難しいと難色を示した。

 一転、実現にこぎつけたのは、当時の土屋義彦埼玉県知事と早稲田大学の運動だった。土屋知事は

「県南北の地域格差是正」

を持論としており、本庄市に新幹線駅をつくることで是正が実現できると期待していた。早稲田大学は、1962(昭和37)年に本庄に土地を購入しキャンパスを設置、1982年には付属校の早稲田大学本庄高等学院を開校している。当時の奥島孝康総長は、早稲田キャンパスの改革など、キャンパス内の再開発を強化していた。その一環として、本庄キャンパスの強化ももくろまれていた。

 このふたつの要素が、本庄早稲田駅が実現した理由だった。『朝日新聞』2004年3月14日付朝刊では、このふたりの力が大きく作用したことを、包み隠さず報じている。

「(土屋知事が)「旧知の間柄」と広言する松田昌士JR東日本社長(当時)と直談判し、中央政界とのパイプをフルに生かした交渉を展開。それを奥島前総長が大学院開設という形で後押しした」

 土屋知事は、参院議員を経て、本来は「あがり」であるはずの参議院議長を務めた後に県知事に転身したという異色の経歴を持ち、巨大な政治力を持った人物として知られていた。

 奥島総長もスポーツ推薦の導入や、PRを重視したともいわれる当時のトップアイドル・広末涼子の入学、大学業務のアウトソーシング推進など、大学の営利企業化を促進させた人物であった。この功罪両面を併せ持つふたりの政治力によって駅は実現にこぎつけたのである。

本庄早稲田駅(画像:写真AC)

新幹線駅開業の負担と現実

 もちろん地元の負担は大きかった。請願駅(自治体、地域住民、新駅周辺企業の要請により設置された鉄道駅)なので建設費用は当然全額地元負担となった。総額約123億円のうち、

・本庄市:41億円
・埼玉県:41億円
・岡部町と児玉郡町村:20.5億円

で、足りない部分は民間からの寄付を求め、早稲田大学も7億円を寄付している。

 この費用負担は重かった。現在の吉田信解(しんげ)市長は市のウェブサイトで、新幹線駅実現に至る熱い思いを記している。そのなかにこんな一文が。

「駅開業から20年、この間の道のりも決して平たんではありませんでした。本庄市も単費で41億円もの金額を供出し、そのしわ寄せはさまざまな分野に及びました。周辺整備も地域公団の整理統合で宙に浮き、私もそのような中で市長職に就き、多くの職員の皆さんと苦労しながら今日まで来ました。大きな不況や災害もあり、近年では駅乗降客もコロナ禍の影響で激減。最近やっと回復傾向にあります。駅周辺についても、まだまださまざまな課題があります」

 本庄早稲田駅は開業後、駅はどうなったのか。資料を基に語っていこう。2004(平成16)年3月14日の開業日には、約4万人が集まった本庄早稲田駅だが、その後の利用は決して芳しいものとはいえなかった。

 年度別1日平均乗車人員を見ると、2004年は1671人。その後は2000人台でほぼ横ばいが続き、2018年には2278人(定期外1018人、定期1260人)を数えるも、2022年には1722人(定期外792人、定期929人)となっている。

 新幹線には安中榛名駅(群馬県安中市)のように、一日平均が常に3ケタ台の駅もある。それらの駅と比較すれば決してひどいわけではない。しかし、市民の熱望により鳴り物入りでできた結果としては、ちょっと寂しいものになっている。

本庄早稲田駅(画像:写真AC)

政治に翻弄された駅開発

 ちょっと寂しいものになった理由はなんだろうか。

 本庄早稲田駅は立地面では優れた駅である。かつて整備予定地にあった無料駐車場はなくなったものの、駅周辺には駐車場が多く、ここから新幹線に乗り換えて出掛けるパークアンドライドを想定すれば利便性はピカイチだ。そうした駅のため、埼玉県北部はもちろん、利根川を挟んだ伊勢崎市周辺までの広い地域をカバーしている。

 ところが、駅周辺の開発は後手に回った。駅開業当初こそ、本庄市に経済効果はあった。それまで売れ残っていた市内の産業団地も駅開業後には完売した。住宅の開発も増加し、乗降客を目当てにタクシー会社の新規参入もあった。

 しかし、駅周辺の開発は遅れた。駅周辺の約154haの土地では、大型商業施設を含む開発を計画していたが2005(平成17)年になり、計画を当初の3分の1に縮小したいと市に申し入れている(『朝日新聞』2005年6月21日付朝刊)。

 これは、政治によって作られ、政治に翻弄(ほんろう)された駅の結果である。

 この開発は「地域振興整備公団」が担い、400億円以上の大規模プロジェクトとされていた。ところが、駅の工事が進んでいた2001年に誕生した小泉内閣は、改革の一環として公団を廃止。事業に着手する前に、担い手が消滅し仕切り直しになってしまったのだ。

 事業は「都市再生機構」に引き継がれたが、機構は公団と違い自前で事業費が出せなかった。そのため、計画を縮小せざるを得なかった。駅開業当初に示されていた高層ビルが立ち並ぶ「本庄新都心」の風景は幻となったのである。

本庄早稲田駅(画像:写真AC)

カインズ本社移転の衝撃

 しかし、2012(平成24)年になり状況は大きく変わった。ようやく停滞していた開発が始まったのだ。

 大きなきっかけは、ホームセンター「カインズ」本社の誘致に成功したことだ。それまで群馬県高崎市に本社を置いていたカインズは、2012年10月に駅南口に建設された5階建て床面積約2万7000平方メートルの本社ビルに移転している。

 この時期、同社は店舗展開を北関東から全国に広げる戦略を持っており、その布石が本社移転だった。本庄早稲田駅だけでなく、関越道の本庄児玉インターも近い立地は、そのための理想的な拠点だったのである。同時期には駅北口ではショッピングモールの建設が開始、南口では早稲田大学を中心にエコタウン化の取組が始まっていた。しかし、地元には冷めた見方もあった。

「駅建設時には「早稲田大学の学部が設けられ、学生も人も大勢来る」という期待が広がった。(中略)ところが早大は大学院の「国際情報通信」「環境・エネルギー」の研究科を設けたが学部はない。70代男性は「学生が少ないせいか、地域と大学の一体感は感じられない」と話す」(『朝日新聞』2012年10月14日付朝刊)

ショッピングモールに対しても、駅利用者の多くは駐車場にクルマを止めて都内へ向かう人であり、市内の客のみで外からの客は呼び込めないという懸念もあった。

 結果はどうであったのか。2024年3月、『朝日新聞』埼玉版では「10年目の現実 新幹線・本庄早稲田駅」を3度に渡って連載している。

 この連載では、駅開業当初にイメージされていた駅周辺にビルや住宅が立ち並び、早稲田大学の研究者が集うという「本庄新都心」が幻となってしまったことを記している。
その最も大きな理由は、

「都心との接続が希薄なままになった」

ことであった。

本庄早稲田駅(画像:写真AC)

停車本数不足

 当初、本庄早稲田駅には埼玉県北部を通勤圏とする役割が期待されていた。東京から本庄駅までは高崎線経由で2時間あまり。それが新幹線なら約50分(おおむね46分)。ゆえに本庄は

「東京の通勤圏」

として発展すると考えられていたのだ。そうならなかったのは、一部の時間帯を除けば停車する新幹線は

「1時間に上下各一本」

と少なかったことだ。このため、遠回りでも熊谷駅や高崎駅を利用する人も多かった。

 これに加えて前述のとおり、再開発事業が縮小された。新設されたのはわずかな大学院で、学生街が形成されるほどではなく人口は少ないままだった。駅はできたが周辺の開発が進まず、

「人口が少ない = 駅利用者が少ない」

ために、余計に発展は遅れてしまったのだ。

 そして20年目を迎えた今はどうなったのか。駅北口にはショッピングモールもでき、ロードサイド店舗も並ぶようになった。「本庄新都心」とはなっていないが、開発は進んだ。

 北陸新幹線の敦賀延伸を前に、本庄早稲田駅を取り上げた『福井新聞』2023年6月17日付では整備された南口の「早稲田リサーチパーク地区」では

「住宅ゾーンに約550世帯が暮らし、物件が足りないほどの人気エリア」

とし、広い道路、公園といった環境面に加えて

「早稲田ブランドによって選ばれている」

としている。もっとも、その一方で

「東京から来る人は、時間がかかっても料金の安い在来線を使う」

と現状の問題を記し、にぎわいを生む施設を求める声が根強いことにも触れている。

本庄早稲田駅(画像:写真AC)

若年層流出問題

 新都心構想の失敗は、期待された人口増加を実現できなかった点に如実に表れている。

 2010(平成22)年に8万1889人だった本庄市の人口は、2020年には7万8569人(4.1%減)まで減少している。新幹線駅の設置にもかかわらず、人口減少を食い止めることができなかったのである。2016年時点での「本庄市人口ビジョン」の推計では、人口は2040年には約6万5200人になると推計している。

 本庄市がまったく魅力に欠けた地域かといえばそんなことはない。労働生産性(事業従業者ひとりあたりの付加価値額)を業種別に見ると、製造業の労働生産性が全国および埼玉県を上回っている。また製造業は競争力と雇用吸収力ともに高い。

 農業に関しても、耕地面積が畑作を中心に県平均を超えており依然として活発だ。さらに公園などの施設も充実しており、保育園は待機児童数ゼロを維持している。

 このようにポテンシャルの高い都市にもかかわらず、高校3年生へのアンケートでは、

「進学希望者のうち約3割が東京での就職を希望する」

など若年層を中心に転出超過が続いているのが、本庄市の現状だ。

本庄早稲田駅(画像:写真AC)

早稲田ブランドと都市活性化

 本庄市は念願の新幹線駅を獲得しながらも、開発面で後手に回る20年あまりを送ってきた。早稲田大学の影響力により駅そのものは実現したが、新都心を実現するまでの力は持たなかったのだ。

 早稲田大学のブランド力は住宅地の人気に一定の貢献をしているものの、それだけでは地域全体の発展には不十分だ。本庄市が今後の発展を目指すならば、先に記したような潜在的な魅力を最大限に生かしつつ、新幹線駅の利便性を高めることが不可欠である。

 本庄市では、市街地の立地適正化のため、旧市街地の「まちなか再生」「新しい魅力と活力あるまちの創造」に加え「多様なライフスタイルの実現」などを掲げている。居住の誘導策としては、民間宅地開発における道路整備への補助や、空き家の建て替え補助、空き家除去後のポケットパーク化を展開している。

 星卓志氏・野澤康氏・松村叡英氏・池上文仁氏による論文「都市構造の再編に向けた立地適正化計画の効果的運用に関する研究」(『日本建築学会計画系論文集』第86巻第780号)では、この施策を

「本庄駅周辺においては都市機能誘導区域が約118haであるのに対して居住誘導区域が約291ha、本庄早稲田駅周辺では両者とも約154haと一致させており、上記基本方針実現への姿勢が色濃く表れている」

と、分析している。

本庄早稲田駅(画像:写真AC)

本庄早稲田駅の新時代

 このことが意味するのは、本庄早稲田駅が、将来の人口減少を見据えたコンパクトシティ化における有望な開発地になるということだ。

 当初の開発計画が破綻し、多くの土地が残っている本庄早稲田駅は、IoTなどを活用した実験都市を計画するのに最適な場所である。にぎわいのある本庄早稲田駅の基盤は、寂れた新幹線駅から新時代の拠点へと変貌させることである。

 そのためには、新幹線駅の存在を生かし、首都圏へのアクセスのよさを生かしたカインズだけでなく他企業の誘致や販路拡大支援など、地域経済発展と駅利用の相乗効果を考えることが推奨される。

 何よりもまず、JRに新幹線の停車駅を増やすよう働きかけ、新幹線駅の利便性を向上させることが不可欠だ。これらの施策を通じて、新幹線駅の存在を本当の意味での地域振興につなげることが、本庄市の将来にとって最も重要な課題である。