東京都教育委員会が4月26日、志村1丁目側の「志村一里塚」で除幕式を開き、新設した石柱をお披露目した。(板橋経済新聞)

 「小池百合子東京都知事自筆の文字」を刻字したことを記した案内板も新設

 一里塚は、江戸に幕府を開いた徳川家康が1604年、翌年に2代将軍を継ぐことになる秀忠に江戸日本橋を起点とする五街道の整備を命じ、その一環として一里(約4キロ)ごとに街道の両側に塚を築き、標識としてエノキなどの樹木を植えた。一部には戦国時代末期の築造が伝えられる一里塚跡もあるが、江戸初期以降に全国の街道筋に本格的な整備が広がったとされている。

 「志村一里塚」は、江戸五街道の一つ・中山道(なかせんどう)の本郷追分(おいわけ)、板橋宿の平尾に続く3番目の一里塚として築かれ、今回石柱が新設された志村1丁目側と、中山道を挟んだ向かいの小豆沢2丁目側との2基一対が現存。板橋区教育委員会文化財係の学芸員によれば、「街道の両側に一対で残っている一里塚は全国的にも少なく、都内では板橋区志村と、北区の本郷通りにある西ヶ原の2カ所しかない」という。「西ヶ原一里塚」は本郷追分から分岐する岩槻街道(日光御成道)2里目の一里塚。いずれも1922(大正11)年3月8日に国の史跡として文化財指定を受け、同年11月から東京都(当時は東京府)が管理団体となった。毎月地元の町会によって植栽の手入れや清掃が行われ、400年以上にわたって周辺地域の住民の手で貴重な文化財が守られている。1984(昭和59)年に板橋区の有形文化財に指定され、2003(平成15)年には区制70周年を記念して区民公募した「板橋十景」にも選出された。現在、国史跡に指定された一里塚は全国17カ所。

 板橋区教育委員会刊行の「時を紡ぐ 総集編」や「板橋版・澁澤榮一地図:1840-2022」「板橋宿の歴史と史料−宿場の街並みと文化財−」などによれば、一里塚は幕末以降に十分な管理が行き届かなくなり、明治政府が1876(明治9)年に一里塚廃毀令を出したことで全国的に取り壊しが進んだとされる中で、志村一里塚は古くは慶安年間(1648〜52年)作とされる板橋区指定文化財「堀之内村絵図」(大野和夫家文書)に描かれているという。幕府の道中奉行所が実地測量して1806年に完成させた「五海道其外分限延絵図並見取(ごかいどうそのほかぶんげんのべえずならびにみとりえず)」には、中山道の両側共に街道に隣接した人家を挟んで築造されていた様子が見て取れ、1933(昭和8)年に完了した中山道の下板橋〜戸田橋間の大規模改修工事の際に歩道を含めて道幅25メートルに拡幅するも、元々の立地状況から1935(昭和10)年10月に文化財指定範囲を「一部追加・解除を行っただけで、塚の位置は移動していない」と当時の申請資料に掲載した図面を元に明らかにしている。

 今回開催された除幕式には、浜佳葉子東京都教育長、坂本健板橋区長、志村町会の齋藤剛彦町会長ほか、石柱正面に刻まれた「国指定史跡 志村一里塚」の文字を揮毫(きごう)した小池百合子知事も参列した。