殺人? イエス。近親相姦(そうかん)? おそらく。残忍な政治権力の行使? 間違いない。悪名高い皇帝の歴史において、第3代ローマ皇帝のカリギュラほど嫌われ、記憶されている人物はまずいない。

 しかし、カリギュラは本当に邪悪な人物だったのだろうか?

「彼はひどい皇帝でした」とカナダにあるブリティッシュ・コロンビア大学の名誉教授であるアンソニー・A・バレット氏は断言する。「ただし、ぜいたくでばかげた行動という意味であれば、彼はそれほど悪人ではありませんでした」。バレット氏は『Caligula: The Abuse of Power(カリギュラ:権力の乱用)』の著者で、カリギュラに関する論文も発表している。

 では、この若きローマ皇帝はどのように悪評を得たのだろう? そして、なぜ短命に終わった残忍な治世を見直す価値があるのだろう?

何者だった?

 カリギュラは、ローマ帝国で最も敬愛されたリーダーのひとりである名将ゲルマニクスの息子ガイウス・ユリウス・カエサル・ゲルマニクスとして生まれた。カリギュラという名前は、子どものころに履いていた「小さなブーツ」に由来する愛称だ。

 カリギュラは父親の指導力を受け継いではいなかった。父親の早すぎる死の後、カリギュラは幼少期の大部分にわたって亡命生活を送り、自身と家族を追放した偏執的な皇帝ティベリウスの保護を受ける身分としてローマに戻った。ティベリウスは西暦37年に死去し、24歳のカリギュラがローマ帝国の次期皇帝になった。

 その後に起きたことは伝説となっている。残酷、行き過ぎ、気まぐれ、政治論争を特徴とする支配だ。しかし、バレット氏によれば、若き皇帝は当初、尊敬されていた父親の足跡をたどるかに見えた。

「彼について知る者は誰もいませんでした。おそらく、彼をコントロールできると考えていたでしょう」とバレット氏は話す。若く、魅力的で、有能そうなカリギュラの船出は順調だった。

精神的な問題?

 しかしその後、状況が一変した。即位から半年ほどたったころ、皇帝の振る舞いに変化が起きた。性格が変わったのは重い病気のせいだと考える歴史家もいる。しかし、バレット氏に言わせれば、「ハネムーンが終わり、重圧がのしかかってきた」のだ。

 行政的そして政治的な負担が明らかになると、未熟で準備不足の皇帝はその称号に恥じないよう奮闘した。訓練を受けておらず、臣下と長老院の信頼を維持する政治的手腕に欠けていたカリギュラは失速し始めた。

 やがて、カリギュラは敵を攻撃し、金のかかる無謀な軍事作戦を要求し、妻の暗殺まで命じた。快楽主義者の皇帝が実の姉妹であるユリア・リウィッラ、(第5代ローマ皇帝ネロの母親になる)小アグリッピナと性的関係を持ったといううわさも流れた。

 結局、自身の治世に対する陰謀らしきものを発見し、カリギュラは2人を追放した。さらに、カリギュラは論争を呼び、元老院をあおって屈辱を与え、あちこちで暗殺を命じた。

 こうした気まぐれな行動、そして、体が不自由になった剣闘士と野生動物を戦わせるようなことをしたと非難されていることから、カリギュラはある種の気分障害や精神疾患だったのではないかという臆測を呼んできた。遡及(そきゅう)的な診断では、てんかんから脳炎まで、ありとあらゆる病名が付けられている。

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