成田空港と並び、日本の空を支える「羽田空港」。ピーク時には1、2分おきに離着陸が繰り返され、乗降客だけで1日13万人以上が利用する。人やモノが絶え間なく行き交う日本のハブともいえる羽田だが、かつてそこには競馬場があった。

 ルーツはいまから約100年前まで遡る。2001年に発行された『大井競馬のあゆみ―特別区競馬組合50年史』(特別区競馬組合発行)によれば、東京で最初の地方競馬として開かれたのが羽田競馬場。開設当初は大田区・蒲田にほど近い東糀谷にあった。1927年7月に最初の開催が行われたが、ほどなくして江東区洲崎に移転。しかし、新天地での競馬は大赤字に終わったことで、再び羽田の地に戻った。

 28年12月から再開された羽田競馬だったが、今度は地権者とのあいだで地代問題が起こる。また、競馬場が手狭になってきたこともあり、組合側でも移転計画が持ちあがった。そこで選ばれた場所こそ、現在の羽田空港・A滑走路のあたり。世界への渡航客でにぎわう第3ターミナルの付近には、かつて競馬場があったのだ。

 新・羽田競馬場は総面積約10万坪(=東京ドーム約7個分)で、1周1マイルの広い馬場を持ち、当時は「日本一の競馬場」ともいわれた。国営競馬の目黒、根岸の両競馬場をしのぐほどの賑わいを見せたというから驚き。売上も順調に伸び、34年には地方で全国一の売上規模を誇り盛況を見せたが、日中戦争の勃発にともなって37年限りで終止符。閉場後には一部が高射砲陣地になった。

 その後も当地で競馬が再開されることはなかった。31年に設置された東京飛行場は航空機のジェット化、大型化によって年々拡張。太平洋戦争の終戦後は東京国際空港(通称:羽田空港)と名を変え、ますます繁栄していった。10年には第3ターミナルが開業するなど周囲は様変わりしており、もちろん遺構は残っていない。

 だが大井競馬場の重賞競走には、その名をしっかりと残す。来週24日(水)に行われる羽田盃だ。今年からダートグレード競走に格上げされ、今年で69回の歴史を数える伝統の一戦が「羽田競馬」の存在を後世まで伝えている。

 羽田空港が国内外を結ぶように、羽田盃からも全国や世界へ飛躍する馬が出てくるだろうか。