「まさかうちからドラフト候補が出るなんて」。今年のドラフト会議で、全国的には無名といえる島根の公立高校からプロ野球選手が誕生した。プロ注目のきっかけになった“ある試合”、スカウト集結のリアル、候補選手のケガ、ドラフト会議の準備まで……「すべて初めてだった」高校野球の監督が明かす、プロ有望選手を抱える“現実”とは。〈全2回の#1/#2へ〉

 ドラフト制度の開始から約60年の歴史において、今回、初めて名前を読み上げられた高校がある。東京ヤクルトの育成2位指名でのことだ。

「第2順選択希望選手……髙野颯太。内野手、三刀屋(みとや)高校」

 島根県雲南市にある、ごく普通の地方公立校にとって、ドラフト指名は髙野が第1号。記念すべき日だった。

 そして、2017年秋から三刀屋の指揮を執る國分健(こくぶ・たけし)監督にとっても、教え子が指名を受けるのは、これが初めて。誰もが見上げるような強豪校も、幾多のプロ選手を育成した手練れの名将も、一度は通ってきた「初めてドラフト候補をチームに抱える」という経験。慌ただしくも幸せな“10月26日”を含め、一人の指導者がドラフト候補と過ごした日々を紐解いていこう。

「真鍋慧」の視察ついでに…唯一のチャンスを生かした男

 國分監督は今年45歳。思わず “青年監督”と呼びたくなる若々しい外見だが、指導歴は20年を超え、県内でベテランと呼ばれつつある存在だ。

 ドラフトとは無縁だった指揮官を取り巻く環境が一変したのは、昨秋だ。島根大会準優勝で出場した中国大会の初戦で、髙野が先頭打者本塁打を含む3安打をマーク。スカウトたちの目の色が変わった。

 三刀屋が登場したのはこの日最終の第2試合。直前の第1試合を戦ったのが、広島代表の広陵だった。“広陵のボンズ”と呼ばれ、この世代の中国地区をけん引する存在と目されたスラッガー・真鍋慧を追うべく、多くのスカウトが球場に集結していた。通常、スカウトたちは目当ての選手の試合が終わった後は、その日に予定されている最終試合の終了まで球場に残ることは少ない。先発投手と各打者の1打席目を見て、自身の琴線に触れる選手がいないと分かれば、球場を後にするからだ。言い換えれば、第2試合を戦った髙野にとって、第1打席が“最初で最後”のアピールチャンス。それを見事にものにして、ドラフト候補にのし上がったわけだ。

スカウト「髙野くん、楽しみですねえ」

 髙野が一発回答を出したことで、スカウトたちは帰り支度をやめ、ゲームセットまで見届けた。そして、取材を終え、球場を後にしようとしていた國分監督を訪ねる。ある球団はユニホームのデザインを模し、また別の球団はチームロゴが目立つようにホログラム仕様にしている色とりどりの名刺を手渡し、一言。

「髙野くん、楽しみですねえ。ぜひ今度練習も見に行かせてください!」

 ここから、監督人生で経験したことのない激動の日々が始まった。

 三刀屋の野球部専用のグラウンドは、徒歩圏内ではあるが、学校から若干離れたところにある。スマートフォンの地図アプリではピンポイントで案内されないため、初めて訪れる者は、チーム関係者に電話で道案内を頼むのが常だ。

遠方から来るスカウトに…「ありがたいやら、申し訳ないやら」

 このグラウンドに、代わる代わる全球団のスカウトが訪れ、髙野の一挙手一投足に熱視線を送った。國分監督が回想する。

「中国地方担当と言っても、自宅が関西や関東にあるスカウトの方も少なくなくて。遠いところから島根の学校まで来てくださって、ありがたいやら、申し訳ないやら。練習の視察も、練習メニューとは別に髙野を個別に見られる方もいれば、『いつも通りの姿を見たいので』と、全体練習を見る方もいる。人それぞれのスタンスがありました」

 近年のドラフトにおいて、常々「市場価値が高い」と言われる右の長距離砲である髙野。スカウトたちは、「春が楽しみですね。また試合を見に来ます」と言い残した。が、春を前にした2月に、左手の有鈎骨の疲労骨折が発覚。3月初旬から再開される対外試合への出場が難しくなった。それはドラフト指名に向けた重要なアピールチャンスを失ったことを示していた。

ケガで成績低迷…監督の「焦り」

 5月末に実戦復帰してからも打撃の感覚が戻らず、視察を再開したスカウトの前で凡退を繰り返して苦しむ髙野の姿に、國分監督も焦燥した。

「故障が治ってから一回もいい状態を見せられていなかったので、どこかで見せないとマズい。監督の自分が髙野の1打席、1打席を、必要以上に気にし過ぎてしまいました。入学以来ずっと『プロに行きたい』と言い続けて、現実にできるかもしれない髙野の未来を案じるあまり、監督の自分が『あちゃー』と落ち込みすぎた。それが髙野にもチームにも伝わってしまったと思います」

「プロのスカウトから、どう見られるか」を意識し過ぎた故の後悔は、まだある。髙野の打席での“ルーティン”に関してだ。

「スカウトの方がマイナスに捉えるんじゃないか」

「風貌から豪快、豪傑と見られがちなんですけど(笑)、髙野って、色々なことを気にする性格なんです。打席でもフォームがおかしくないか、タイミングの取り方が間違っていないかを気にすることが多くて、そういう時は必ずベンチにいる自分を見てきました。そこで『大丈夫だよ』の意味で笑ったりすると、すごく安心した表情で打席に戻るんです」

 髙野にとって、ベンチにいる指揮官の表情やジェスチャーは、打席での自分を映し出す鏡であり、何よりも心の安定剤だった。しかし、5月の実戦復帰以降、このルーティンを禁じた。

「スカウトの方が、この様子を『自信がなさそう』とマイナスに捉えるんじゃないかと怖くなったんです。けど、ただでさえ打撃の状態が上がらない時期に彼のルーティンを取り上げたことで、余計に復調を遅らせてしまったのかもしれない。高校生って『もう高校生なのに』と言われたり、『まだ高校生なんだから』とも言われる、大人であり、子どもでもある年代。今思うと、評価を気にするあまり、独り立ちを急ぎすぎました」

甲子園も狙える代…監督の苦悩

 今年の三刀屋は、髙野だけでなく、左の巧打者である槇野隼稀(しゅんき)、2年生ながら最速143キロに達した左投手の三原陽空(はるく)を擁するなど、戦力が充実していた。学校として1978年夏の初出場以来、監督である自分にとっては初の甲子園出場が十分に狙える――。指導者として千載一遇のチャンスを迎えていたが、夏が近づくにつれて、國分監督の悩みは増幅していく。苦悩の要因は「アピールと勝利の両立」だった。

「髙野は元々サードだったんですけど、2年夏前の練習試合でイレギュラーした打球が鼻に当たって骨折したこともあって、夏はレフト、秋はセンターを守らせました。さらにチームを勢いづける期待を込めて、『島根の浅野翔吾になれ!』と、秋は打順も4番から1番に変えていたんです」

 6月のある日。毎日提出する野球ノートに、髙野がこんな言葉を記したという。

「甲子園に行けるなら、自分がプロに行けなくてもいい。打順も守備位置も國分先生に言われたところをやります。とにかく甲子園に行きたいです」

アピールと勝利…どちらも狙う“決断”

 ノートの表紙をめくったところにある「目標」欄には、「プロ野球選手」と力強く書かれている。春以降、故障でアピールの機会が限られ、その夢をつなぎとめられるかの瀬戸際に立たされている。それでも主砲は「自分のアピールよりも、チームを優先してほしい」と、指揮官に訴えたのだ。そして、國分監督が悩んだ末に出した答えは、「1番・三塁手」だった。

「スカウトの方々に『すみません! 夏もチーム事情で外野です』と勇気を出して言おうかと思ったんですが、サードに戻ることを踏まえて評価してくださった球団もある。それを伝えた瞬間、わずかながらも残っているプロ入りの芽を摘んでしまうんじゃないかという怖さがありました。打順も中軸に置きたかった気持ちがありましたけど、秋に勝ち上がったのも1番の髙野が打ったから。その残像がありましたし、5、6月の実戦で全く結果が出なかったので、一打席でも多く打席に立たせたかったんです」

 熟考の末に出した答えは、孕んでいた期待と不安の両方を夏の初戦で発出した。

〈つづく〉

文=井上幸太

photograph by Kota Inoue