50年ぶりの新規参入球団として誕生した楽天イーグルスも、今年創立19年を迎えた。いくつも苦難のシーズンを乗り越えてきたが、2013年には24連勝の田中将大を擁し、悲願の日本一を達成。今や人気球団として定着したが、その創成期は波乱続きであった。楽天の初代編成部長を務めた広野功に当時の話を聞いた。【全3回の前編/中編、後編も公開中】

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「もしもし、今から六本木ヒルズに来られますか?」

「もしもし、ヒロノさーん。マーティでーす。今から六本木ヒルズに来られますか?」

 2004年9月28日、母校である慶應大学野球部の秋季リーグを観戦していた広野功に一本の電話が入る。電話の相手は、過去に太平洋クラブライオンズのフロントを務め、スポーツライターや評論家として日米のスポーツビジネスに精通しているマーティ・キーナートだった。

 同年6月から球界はプロ野球再編問題に揺れていた。広野が電話を受けたのは、オリックス・ブルーウェーブと大阪近鉄バファローズが合併し、新規参入球団として楽天とライブドアが名乗りを上げていた時期だ。かねてより、近鉄買収の意思を示していたライブドアに対し、楽天は9月に参入意思を表明した。マーティからの電話は、広野に楽天の編成部長をしてほしいという旨だったのだ。

 1943年徳島県徳島市生まれの広野は、徳島商業で甲子園に出場し、慶應大学に進む。慶應時代に広野はリーグ通算8本塁打という長嶋茂雄に並ぶ当時の六大学タイ記録を樹立し、中日にドラフト1期生(3位)で入団した。その後、西鉄、巨人、中日を渡り歩き、球界史上唯一、逆転サヨナラ満塁本塁打を2本放った勝負強いバッターとして球史に名を残した。現役引退後は、中日スポーツの記者を経て、中日やロッテ、西武のコーチや二軍監督を経験。ロッテでは2001年から2003年まで編成部長も務めた。

「あんたら、おかしいんじゃないの?」

 そんなプロ野球界の表と裏を知り尽くした広野へ、新球団の編成部長として白羽の矢が立ったのだ。六本木ヒルズでのやりとりを広野はこう話す。

「正式に参入が決まるのは11月2日のオーナー会議を経てということでしたが、電話を受けた時点で、99%楽天で決まりだということでした。呼び出された六本木ヒルズでは、分配ドラフトと通常のドラフト会議にも参加してくれと言われました。でも、当たり前ですが急造の新球団ゆえにスカウト活動はおろか、スカウトもいない状態。『そんな状態でどうやってドラフトするの?』と聞いたら、『広野さんには情報と球界に利く顔がある。そのために呼んだんだから、なんとかしてくれ』と。『あんたら、おかしいんじゃないの?』と、びっくりしましたね(笑)」

 このような無茶振りから、広野の楽天創生の仕事が始まったのだ。

「他球団が指名できない即戦力ピッチャーがいた」

 まずは、目前に迫った分配ドラフトが目下の仕事だ。分配ドラフトとは、オリックスと近鉄の選手を新球団であるオリックス・バファローズと楽天で振り分けるもので、楽天の参入が認められた6日後の11月8日に行われた。その結果、40選手の楽天入団が決まったが、広野は彼らの背番号や年俸をすべて決めたという。

「40人の給料を決めるのは大変ですよ。しかも、そこまで大金は出せないから、前年度の給料より下げなきゃいけない場合もある。しかし、大幅な減額だと税金などが払えなくなる選手もいたため、年俸以外のインセンティブをつける必要がありました。試合数、打席数、打率、打点とかの項目で、その選手がクリアできるようなボーダーと金額をすべて計算しました。背番号でも、近鉄とオリックスではダブる選手もいますし、それぞれこだわりがありましたから、その調整作業もしましたよ。例えば、山﨑武司(元中日、オリックス 、楽天)が希望していた7番をうっかり先に若手につけてしまったことがあった。そんな場合は、『あいつがつけたいと言っているから、その背番号譲ってくれないか』と選手たちに直接電話するんです」

 分配ドラフトから9日後には、鬼門のドラフト会議が待っていた。広野は持てる人脈を駆使してドラフトに臨んだという。

「かつて編成とコーチを務めていたロッテと中日にいた馴染みのスカウトに電話しました。彼らがその年でスカウトを辞めるのは知っていたし、次は楽天で雇うという約束もして『お前が個人的に持っているドラフト候補の資料や情報をくれ』と。当然ですが、もう他球団では指名選手がほぼ決まっていましたから、正直一線級の選手は残っていませんでした。しかし、他球団が指名したくてもできない即戦力ピッチャーが、その年のドラフトにはいたんです」

 それが一場靖弘だった。

<続く>

文=沼澤典史

photograph by JIJI PRESS