高校時代に国体5000m優勝などの活躍を見せていた小川博之。福島の田村高校から国士舘大学へと進んだ小川は、東京農業大学で箱根駅伝を走れなかった父の思いも背負って、最後の箱根駅伝予選会に挑む――。(Number Webノンフィクション 全2回の第2回/初回は#1へ)

 父から託された思いも背負って、小川博之は最後の予選会に臨んだ。

 場所は、この年から舞台を移した立川の昭和記念公園。小川の4年時は故障しがちで、万全とは言えない状態だったが、気持ちを奮い立たせてスタートラインに立った。

「確か私が第二集団を引っ張っていったと思うんです。最後の方で一つ下の堀口(貴史)という後輩にかわされて、彼はすごく頑張ってくれたんですけど、やはり後が続かずという感じで。私も個人12位とかでしたから、チームに迷惑をかけましたね」

届かなかった箱根駅伝。応援に来ていた父親は…

 この年のチーム成績は10位。2人の留学生ランナーを擁する平成国際大と、今は常連校となった國學院大の2校が初出場を決める中、国士舘大は本戦通過の6枠内に滑り込めず、7年続けて涙をのんだ。

 箱根駅伝に出たい。走りたい。まるで片思いにも似た熱情は、最後まで届かなかった。原っぱの片隅で肩をふるわせる小川の元に、福島から応援に来ていた父親がそっと歩み寄る。肩に手を置き、たったひと言、こう声をかけられたという。

「親父は『お疲れさま』って。そう言ってくれましたね。あの手の重みを感じられたのは、もっと後からだったと思います」

 小学生の頃から一緒に走り続けてきた。直向きに努力する姿を誰よりも近くで見守ってきた。3年生でキャプテンという重圧を担い、苦しむ姿も知っていた。今、息子はどれほど悔しいだろう……。まさに万感の思いがつまった、労いの言葉だった。

翌々年に学連選抜ができる

 チームが敗れても、今ならまだ学連選抜チームで走れる可能性もあるが、当時はその仕組み自体がなかった。選抜チームが作られたのは小川が卒業した翌々年のこと。小川のような選手を救うために制度ができたという話を聞いたことがある。

「それは私も耳にしたことがあります。ちょうどあの頃、箱根に出場できない大学に強い選手が集まっていて、ユニバーシアードの代表にも京産大の選手が入ってました。もう一人、鹿屋体育大に永田(宏一郎)って強い選手がいて、確か出雲駅伝で2年連続区間賞を取っているんです。もし全日本選抜チームを作って、この3人を1区から並べたら面白いんじゃないかって。独走していたかもしれないですからね」

ああ、箱根駅伝走っていないんだ

 大学卒業後は、日清食品グループに就職。エリートランナーが集まる名門だが、小川はこのとき辛い経験をしたという。箱根の影響力の強さを思い知った瞬間だった。

「例えばニューイヤー駅伝の出場選手として紹介してもらうときでも、箱根を走った、走っていないで反応が違うんですね。『ああ、走っていないんだ』みたいに言われて、すごく下に見られる感じがありました。だからこそ今の子たちには箱根を走らせてあげたい。予選落ちをさせてはいけないと思うんです」

 日清食品で活躍した後、JALグランドサービス、八千代工業と3つの実業団チームを渡り歩き、34歳まで現役を続けた。2010年から12年までの3年間は母校でコーチを務め、ランナーとコーチ業の二足のわらじを履いていた時代もある。

選手たちを羨ましいと思う気持ちもありました

 国士舘大は2012年に3年振りの本戦復帰。実質、チームを率いていた小川は運営管理車に乗り込み、コーチという立場ながら初めて箱根駅伝に出場した。

 正直なところ、心境は複雑だったと話す。

「選手たちには頑張ってほしい。でも、一方で選手たちを羨ましいと思う気持ちもありました。走りたかったという思いは、やっぱりありましたね」

“監督”として走った第88回箱根駅伝

 2012年の第88回大会は、2代目山の神と呼ばれた柏原竜二(東洋大)のラストイヤー。観客が鈴なりの5区ではこんな経験をしたという。

「道の両側に幟が立って、ツールドフランスみたいだねって話した覚えがあります。あの当時は監督が車から降りて選手に給水するのが決まりだったんですけど、片側が観客で埋まっているから車が止まれなかった。『監督、走れますか』って聞かれて、『もちろん』と。車から降りて、ダッシュして選手に追いついて、短く声をかけました。200mくらいでしたけど、またダッシュして戻ってくる。その時に沿道から『監督、頑張ってー』って声をかけられたんです。あれはちょっと嬉しかったです(笑)」

 記録にも、記憶にも残らない小走りだったが、小川にとっては忘れられない思い出だ。

強くなるのも弱くなるのも自分次第

 いったん母校を離れ、引退後に実業団チームで指揮を執り、再び国士舘大の助監督として迎え入れられたのは2020年のこと。昨年からは監督に昇格し、低迷するチームの再建を託されている。

 指導で心がけているのは、こんなことだという。

「やっぱり、強くなるのも弱くなるのも自分次第なんですよ。あの4年間を経験して、そういう気持ちが大事なんだって改めてわかったので。だから、今の学生たちにもなるべく自分自身で考えさせるようにしています。テーマを与えて、意見を聞いて、それを取り入れることもあれば、ここまでは崩さないよと説得することもある。たまに『選手の意見を聞きすぎだ』って言われるんですけど、それが自分の指導スタイルだと思ってますね」

 さらなる指導の向上を図ろうと、昨年から日大大学院(通信課程)でスポーツ心理学を学ぶ。選手の気持ちに寄り添うことができるのは、喜びだけではない、辛い経験をたくさんしてきたからだろう。

選手人生に後悔はないか? 尋ねると…

 選手人生に後悔がないかどうかを尋ねると、監督はこう言って笑顔を見せた。

「幸いにも仲間に恵まれて、いまこうやって母校の指導に携われている。箱根には出られませんでしたけど、この人生を送ってきて良かったなと思います。あとは、母校がシード校の常連となって、いずれ区間賞を取るような選手が育てられたら、きっと満足できるんじゃないですかね。それまでにクビにならないように頑張らないといけませんけど」

 歳月は悲しみを癒す。辛い経験も糧となる。人生は山あり、谷ありだ。

 小川が率いる国士舘大は8年連続の箱根駅伝出場を果たし、今年はシード入りを狙っている。もしシード権の獲得となれば、それは34年振りの快挙となる。

 <「前編」とあわせてお読みください>

小川博之Hiroyuki Ogawa

1978年6月17日、福島県生まれ。田村高3年時に国体5000mを優勝、国士舘大学時代に1999年、ユニバーシアード10000mで5位入賞。2012年まで実業団選手として活躍し、実業のコーチとして指導実績を積んだ後、2020年母校の助監督、2022年から監督に就任

文=小堀隆司

photograph by Yuki Suenaga