創価大の“クライミングモンスター”吉田響(3年)は、2年前とは違うユニフォームに身を包み2度目の箱根の山に臨んだ。

 吉田は、今年度に東海大から創価大へ編入。出雲駅伝、全日本大学駅伝と共に5区区間賞(全日本は区間新記録を樹立)の活躍で、早くも創価大の主力選手としてチームの躍進を支えている。新しい環境に身を置き、再び箱根路を走れたことには感じ入るものがあったのだろう。

「自分はこの1年間、創価大にすごく支えられて頑張ってこられたので、来年は結果で恩返しを果たしたいです」

 箱根では寒さに苦しみ5区9位と悔しい結果になったが、早くも次回大会での快走を誓っていた。

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日体大と松蔭大…「2つの大学で箱根を目指した」選手

「吉田響選手のことはもちろん知っていました。東海大に在籍していた後半のほうは苦しんでいたみたいなので、今、チームを変えてすごく活躍しているのを見ると、本当に良い選択をしたんじゃないかなと思います。能力が高い選手ですし、これからも活躍していくと思うので、今後が楽しみです」

 こう話すのは、現在、実業団のコモディイイダで活躍する梶原有高だ。

 松蔭大出身の梶原は、母校のタスキをかけることはなかったものの、学生時代には4年連続で関東学連選抜チーム(当時)の一員として箱根駅伝を走っている。

 実は、梶原が最初に入学したのは箱根でも名門である日本体育大学だった。

 ただ、梶原はその日体大を2カ月で退学し、その翌年に松蔭大に入学し直している。吉田のケースとは微妙に異なるが、環境を変えて箱根駅伝出場に漕ぎ着けたという点では境遇が重なる。

「基本的には自分で選ぶタイプです」

 こう話すように、梶原は自分で環境を選択しながら、35歳になった今も競技を続けている。

 遡れば、中学卒業後の進学先を選ぶ時からそうだった。神奈川県出身の梶原は中学時代に全国大会に出場した実績があり、県内外の強豪校から誘いを受けた。その中から練習環境等を考慮して、県境を越えて静岡県の藤枝明誠高に進んだ。

 高校卒業後の進路として密かに憧れていたのは、地元に近く、佐藤悠基(現SGホールディングス)や伊達秀晃が在籍し、箱根で度々鮮烈なインパクトを残した東海大だった。しかし、全国高校駅伝に出場した実績はあったものの、梶原が東海大から誘われることはなかった。

「日体大以外の大学からも誘いはあったそうですが、先生が断っていたようです。おそらく先生が自分のことを考えたうえで、日体大を提案してくれたのだと思います」

 近年では少なくなってきたものの、陸上界ではかつては本人の意志と関係なく、指導者の意向で進学先が決まることも少なくなかった。もちろんそれは進学先の環境などを指導者なりに考え、選手へのリスクを忌避する“親心”からの動きであることも事実で、一概にすべてが悪いわけではない。

 梶原の場合は、それが日体大だった。もちろん指導者から薦められたとはいえ、最終的な決断を下したのは本人でもある。

選手と大学の環境には「相性」がある

 だが、実際に進学してみると、その環境になかなか溶け込めなかった。自分が本当に行きたかった進学先ではなかったことも一因にあったのかもしれない。

「僕はある程度、自分の状態に合わせて練習の強度や内容などを変えていきたいタイプでした。でも、当時の日体大は練習がかなり綿密に決められてしまっていて、自分の思うように、伸び伸びとはできませんでした」

 誤解のないように付け加えるのであれば、この練習環境自体が良い、悪いというわけではない。練習における「自主性の幅」をどこまで取るのかということに、普遍的な正解があるわけではないからだ。実際に日体大の環境で大成した選手も多いわけで、ただただ、梶原には合わなかっただけということだ。

 とはいえ一度ネガティブになれば、何もかもが嫌になってしまうのも人の心理というものだ。

「寮の仕事や授業のストレスも結構ありましたし……早めに決断しました」

 入学から2カ月後、梶原は日体大を去ることを決めた。

 もちろん周囲からは反対や批判の声が多かった。親や高校の先生には相当怒られたという。スポーツ推薦という枠で入った身でもあり、親には多額の入学金を払ってもらっている。梶原もまた申し訳なさでいっぱいだった。それでも、大学に通い続けることの苦痛には代え難かった。

 6月に日体大を辞めた梶原は、地元に戻りフリーターになった。

 朝の6時から12時まではコンビニ、午後2時から6時まではファミレスとアルバイトを掛け持ちし、忙しなく働いた。

 それでも、走ることは止めなかった。

「もう箱根駅伝には縁がないと思ったので、どこかに就職して市民ランナーでやっていこうと思っていました」

 アルバイトの後や休みの日に、時間を作ってトレーニングを積んだ。

 そんなある日のことだ。知らない番号から携帯電話に着信があった。当時、松蔭大のマネジャーをしていた瀧川大地氏からだった。余談だが、瀧川氏はのちに青山学院大、東海大などでコーチとしても活躍する。

 厚木市の公園を走っていた梶原を見かけ、知人を伝って連絡してきたという。

「僕を中心にチームを作っていきたいとのことで『どうしても入ってほしい』と熱心に誘ってくれました」

 箱根駅伝にいまだ出場したことはない大学だった。だが、その熱意に梶原の心は動かされた。そして、翌年に入学。梶原の新たな選択には両親も喜んでくれたという。

松蔭大に再入学→1年目から選抜チームで箱根路へ

 自分で選んだ環境というのがやはり合っていたのだろう。梶原は1年時の予選会で、チームは19位ながら個人48位となり、関東学連選抜で箱根駅伝出場を果たした。

「高校の時はあまり強くなかったので、まさか1年生から選抜に選ばれて箱根駅伝を走るチャンスが巡ってくるとは思ってもいませんでした。選抜チームにはいろんな選手がいて、話を聞くのが面白かったです」

 その晴れ舞台で梶原は7区を走り区間5位と好走。当時は選抜チームの順位も正式に認められており、チームも総合9位となりシード権を獲得した。復路だけの順位は3位という好成績だった。その時にチームメイトだったプロランナーの川内優輝(あいおいニッセイ同和損害保険)とは今も一緒に練習するなど交流が続いている。

 結局、梶原は4年連続で箱根を走った。

 箱根を走った反響は大きく、大学を辞めたことで一度は顔を見せにくくなっていた高校時代の指導者ともわだかまりが解け、再び連絡をとれるようになったという。

 もしあの時、梶原が日体大を辞めずにいたら――どうなっていたかは誰にも分からない。

 だが、仮に練習スタイルに何とかアジャストできたとしても、選手層の厚い日体大で梶原の才能が埋もれていたことも十分に考えられた。はたして現在と同じような活躍を見せられていただろうか。

 偶然が重なったとはいえ、自ら選択した道で梶原は箱根ランナーになった。

 社会人になってからも、梶原はプレス工業、ひらまつ病院、コモディイイダと数チームを渡り歩いている。

 大学卒業後に入社したプレス工業を退社した当時は「円満退社でなければ移籍できない」という実業団連盟の規則があり、すんなりと移籍が叶わなかった。そのため、青山学院大の購買部で働きながら同大でトレーニングをしていた時期もあった(※実業団の円満退社の規則は2020年に撤廃され、以前よりも移籍が盛んに行われている)。

 ひらまつ病院を辞めたのは一度、現役引退を決意したからだった。

 ただ、しばらく休息すると「また走りたい」という意欲が湧いた。コモディイイダの会沢陽之介監督に自らアプローチし、再び競技の道が開けた。そして、2023年は5000mと1万mの2種目で自己ベストをマーク。35歳になった今も、まだまだ進化を続けている。

18歳の決断が「絶対の正解」とは限らない

 高校卒業後の進路を決めるのは、選手が17歳か18歳の時だ。

 当然、その時の決断が絶対の正解とは限らない。通常であれば、一度大学に進んでからも、まだまだやり直しのきく年齢のはずだ。実際に一般学生の場合には、転学や転部、さらには仮面浪人をする事例は多々ある。

 それを考えれば、梶原や吉田が示したように、アスリートにだってそういった選択は可能なのだ。むしろこれまでそういった例が少ないことの方が不思議なのかもしれない。

「人間関係とか環境に悩んで陸上競技を辞めてしまう人もいると思うんですけど、そういう理由で辞めてしまったらもったいない。辞めるぐらいなら環境を変えてやっていくのも1つの手だと思います」

 様々なしがらみや規則に翻弄されながらも、自らの選択で道を切り開いてきた。だからこそ、梶原が口にした言葉には妙に説得力があった。

文=和田悟志

photograph by L)Nanae Suzuki、R)AFLO