センバツ出場校が決まる1月26日、北海道野付郡別海町に凍(い)てつくような寒さはなかった。数日前の豪風雪によって膝の高さまで雪が積もり、空港から別海までの道路は地吹雪が舞っていたものの、1月の平均気温が氷点下7度という極寒・別海を覚悟していた身には拍子抜けしてしまうぐらいの“温かさ”だった。

 町民(約1万4200人)のおよそ8倍となる乳牛11万頭が暮らす酪農の町に歓喜が訪れる——その予兆のような気がしてならなかった。

センバツ発表前「喜び方をレクチャーされ…」

 出場校発表の15分前となる午後3時15分に、授業を終えた道立別海高校のナインが体育館に集まってくる。わずか16人の選手はピンストライプのユニフォーム姿、マネジャーの3人がジャージ姿だ。選考委員会の様子を映し出す大型スクリーンを前に、計19人の部員は横一列に並んで座った。島影隆啓監督(41歳)の姿はない。

 そして、あるカメラマンが、代表校に決まった時の喜び方をいちいち高校生にレクチャーし、その瞬間に備えていた。高校野球を長く取材していれば、落選する学校に立ち合うこともある。常連校ならいざ知らず、21世紀枠候補校が、まして選出が濃厚とされていた学校が選に漏れたら、会場はまさしくお通夜ムードで、監督や選手にはかける言葉も見つからなくなってしまう。そうした事態を想定していないメディアは少し無責任にも思えた。

 いよいよ発表の時間となる。監督の姿はやはりない。寶馨(たから・かおる)日本高等学校野球連盟会長が、最初に今年の大会から2校となった21世紀枠の代表校を読み上げてゆく。

「9校から2校を選ぶのは大変難しかったわけですが、結果として21世紀枠は、北海道の……」

 会長が校名を口にするよりも早く、攻守の要である捕手の中道航太郎主将が真っ先に立ち上がって右手人差し指を天に突き上げた。続いて全部員が輪になり、キャプテンのポーズを真似た。

 昨秋の全道大会でベスト4に進出し、オホーツク海に面した道東に位置する別海高校は、春夏を通じた甲子園の歴史上、日本最東端から甲子園にやってくる代表校となった。

猛牛打線ならぬ「乳牛打線」

 中道主将は昨秋の快進撃の立役者だ。全道大会初戦の苫小牧中央戦では1点を追う9回裏に逆転サヨナラ2ランを放ち(高校生として札幌ドームの本塁打第1号)、準々決勝の知内戦ではタイブレークにもつれた10回に満塁から走者一掃の2塁打を放った。

「(初戦の)ホームランは人生最高の当たりでした。普段、漁師である父の仕事の手伝いで、港での荷揚げをやったりしている。そういうのが自分のパワーの源にはなっているかなと思います。ただ、自分がホームランを打ったことよりも、みんながつないでくれて、勝ち上がることができたことが嬉しい。僕が打って勝ったというのは、ただの結果です」

 父・大輔さんは秋味(秋に北海道で捕れる鮭)やホタテの漁師で、中道主将は将来、父のあとを継ぐことを公言してはばからないが、このチームを支えるのは酪農家(削蹄師を含む)に育った7人の部員だ。往年の近鉄バファローズの猛牛打線ならぬ乳牛打線で、別海高校は甲子園切符を手にした。

発表中「なぜ監督は表に出ず?」

 ナインが別海の牛乳で乾杯をしていた頃、島影監督はひっそりと体育館にやってきた。スーツ姿のためか、報道陣もすぐには監督だと気付かない。筆者は近づき、なぜここまで身を隠していたのかと訊ねた。

「決定の瞬間に生徒と一緒にいたら泣いてしまいますし、冷静になって取材を受けられませんから(笑)。試合では常に全力疾走して、負けていても最後まで諦めず、泥臭く、粘って粘って勝機を見つけていく。これぞ高校野球という野球を、うちはやっていると思います。強い弱いに関係なく、とにかく応援してもらえるチームになろうと普段の生活、練習から心がけてきた。それを評価していただいたと思っています」

監督は前任校で解任、別海の赴任時は「部員4人」

 実は事前に、監督にはインタビューを行っていた。釧路にある私立・武修館高校の監督時代に、島影監督は二度、21世紀枠の候補校(2008年、2010年)となり、いずれも落選を経験していた。その後、2013年8月に突如として解任を告げられる。その理由は「君は人気がなく、選手が集まらないから」。

 とうてい納得することができず、当時の父母会も4000を超える嘆願書を集めて続投を訴えたが、翌年3月に解任の時期が延びただけで、結局は学校を追われた。その年の夏、教え子たちが北北海道大会を制し、甲子園に出場した。それが嬉しくもあり、悔しくもあった。そして、2年間にわたって小中学生に野球の指導を行ったあと、2016年に「別海を盛り上げて欲しい」という町役場からの依頼を受け、別海高校の監督となった。赴任時にいた野球部員はわずか4人の選手とひとりのマネジャーだった。

「別海高校を率いて8年で甲子園にたどり着いたことは、私の中では決して遅くないのですが、武修館時代に甲子園に連れて行ってあげられなかったことを思えば、ずいぶんと長かったように思います」

冬の練習は「農業用ビニールハウス」で…

 オホーツク海に面した別海は札幌などに比べて年間の積雪量は少ないものの、年間の平均気温は5.4度と極寒の地となる。1年のうち、およそ5カ月はグラウンドを使った練習ができない。

「グラウンドが使えるのは、4月の2週目ぐらいから、11月の1週目ぐらいまでです。冬季期間は、5メートル×20メートルの農業用ビニールハウス内での練習が中心ですね。グラウンドが使えない期間にどうやって練習をするのか、毎年、毎年、頭を悩ませています。身体作りをするのに、北海道は一番良い環境なんです。丈夫な身体を作りたければ、雪の上を走らせ、ウエイトトレーニングをガンガンやればいいんですから。だけど、そんな練習だけだと野球観がなくなってしまう。だから雪が降る中、外でノックをすることもありますし、野球につながる工夫をした練習を心がけています」

 島影監督は全道に展開するコンビニチェーン「セイコーマート」のしまかげ中春別店を家族経営しており、できたてのおにぎりなどを提供する「HOT CHEF」の準備のために監督も3時には起きるという。そして、店の駐車場に積もった雪の排除に使うトラクターを学校に運んで、グラウンドの除雪にも監督自らがあたる。

「ところがグラウンドの雪をすべて取り除いてしまうと、グラウンドの土が奥底まで凍ってしまって、春になってもなかなか溶けず、4月の第2週を過ぎてもグラウンドがぐちゃぐちゃの状態で使えないことがある。どれくらいの範囲の雪を除雪して、どれくらいの雪を残して踏み固めれば4月から練習ができるのか。実はいろいろとテクニックが必要なんです(笑)」

町長に訴えた「今のままでは大阪桐蔭に0対40で負ける」

 昨年12月に北海道の21世紀枠推薦校に選ばれた段階で、島影監督は別海町役場を訪れ、町長にこう陳情した。

「もし21世紀枠に選んでいただいて、もし大阪桐蔭と対戦することがあれば、今のままでは0対40で負けて大恥をかいてしまいます。センバツ出場を見据えて、室内練習場を作っていただけませんでしょうか」

 町長も監督の提案に理解を示した。すぐにプロジェクトはスタートし、12月中には牛の品評会や町のお祭りに利用されていた「別海町コミュニティセンター」を室内練習場に改造することが決まった。

「そこからは中道のお父さんが漁師仲間に声をかけてくださり、野球部と関係のない漁師の方々にも協力をいただき、防球ネットを縫い合わせてくれたんです。12月には完成し、1月6日の初練習から使用を開始しました」

「うーん、今のところは0対25ぐらい」

 甲子園常連校に大敗する——そうした恐怖を、21世紀枠に選ばれる学校の指導者は毎年、口にする。練習環境が整いつつある別海の指揮官として、差は埋まりつつあるのだろうか。

「うーん、今のところは0対25ぐらいではないでしょうか」

 そう笑いながら、島影監督は撮影を終えて体育館に戻ってきていたナインの歓喜の渦に加わった。

文=柳川悠二

photograph by Yuji Yanagawa