かつては甲子園の常連ながら、近年は強豪・聖光学院の高い壁に阻まれてきた学法石川高が今春のセンバツ甲子園への出場を決めた。20年以上、聖地から離れていた古豪がカムバックできた裏には何があったのだろうか?(全2回の1回目/2回目につづく)

 学法石川の監督・佐々木順一朗は眠れない冬を過ごしてきた。期待が芽生えると瞬時に不安が顔を覗かせる。意識すればするほど、消極的なもうひとりの自分もいたという。

 2023年秋。東北大会準決勝で学法石川は八戸学院光星に0-1と惜敗した。もうひとつのカードでは一関学院が青森山田に0-4で敗れたことから、翌24年から3校と1校増えた東北地区のセンバツ一般出場枠に滑り込めるのではないかといった、少しばかりの確信を佐々木は抱けていた。

 ところが、一関学院を下した青森山田が、決勝戦で八戸学院光星をノーヒットノーランで圧倒しての優勝を果たしたのである。

 佐々木は、自らの頭上に垂れ込める暗雲をすぐさま感じとった。

「東北大会では県大会1位通過の高校をふたつ撃破して3勝したりだとか、いろんな好材料が揃っていると思っていましたんで。それが、うちに勝った光星さんがノーヒットノーランで敗けてしまったことで、一気に不安が大きくなりました。ですから、センバツを少し確信できたのは準決勝が終わってからの1日だけです。冬の間は、ネットとかで(東北3校目はどこが選ばれるか?のような)議論を目にしながら『本当に五分五分なんだろうな』と。よく『期待と不安』と言いますけど、不安だらけだったと思います」

学法石川、33年ぶりのセンバツ甲子園出場決定

 年が明けた24年1月26日。

 センバツ出場校が発表されたこの日、校内の講堂で吉報を待っていたチームは、33年ぶりのセンバツ甲子園出場に喜びを爆発させた。

 選手たちを前に、佐々木がマイクを握る。

「こんにちは!」

 第一声から始まったねぎらいは簡素だった。

「おめでとう! 嬉しいねぇ。いろいろ言葉を考えたけど、飛びました。ここからは責任が生まれるので、支えてくださったみなさんへの恩返しのために頑張ろう」

 映像や活字。佐々木の言葉に触れた者は、彼が饒舌で、ユーモアや機知に溢れた談話を常に残すことを知っている。

 だが、この時はそれがなかった。理由はひとつ。万感。これに尽きた。

「僕自身、そんなにあの、泣いたりですね、今までなかったんですけど。センバツが決まった直後からの1、2分はですね、ちょっと何とも言えない気持ちになりました」

 前任の仙台育英時代は春夏合わせて19回の出場で準優勝2回。全国を知り抜く佐々木でありながら、学法石川で初めて導いた甲子園は「圧倒的に違う感情」と目じりを下げる。

「前(仙台育英時代)にいい思いをさせてもらっていたなかで苦労がなかったわけではないんですけど、そんな苦労はみなさんしているだろうと思いますしね。こうやってまた出られるというのは、僕が『戻ってきてもいいよ』と甲子園に言ってもらえているような気がするので、安心して戻ります」

 18年の11月に学法石川の監督となってから約5年半。佐々木は強調しないが、異なるユニフォームで目指した甲子園への道は苦節の期間ではあったはずだ。

 そうですねぇ、どうでしょうか……少し見上げ、また口を開く。

「甲子園に出たから言えることもあるというかね。『どうしていこうか』って目の前が真っ暗になる時もありました」

就任当初「あんたに挨拶する筋合いなんてない」と言われ…

 就任1年目。学法石川の当時の3年生のなかには、新監督に対して明らかな敵意を示す選手もいたのだという。

「あんたに挨拶する筋合いなんてないから」

 いくら仙台育英で華やかな歴史を築いてきたといっても、すべてが肯定されるべきものではない。佐々木はそこを痛感する。

 新天地でのスタートは、どちらかと言えばネガティブだった。

「『受け入れられていないな』という感じは。僕が想像するに、最初の頃は部員の半分くらいに『育英で監督やってきたからって何なんだよ!』という雰囲気はあったのかなと」

 当時の選手たちの不信感は、おそらく猜疑心から生じたものだった。

 18年の時点で、学法石川は99年の夏を最後に甲子園から遠ざかっていた。

 12回の出場を誇っていた強豪の凋落は著しく、夏に限れば07年から連続出場を続ける聖光学院が福島の絶対王者として君臨している。

「どうせ聖光学院が出るんでしょ」

 県内のチームが及び腰になるのも無理はなかった。

 そんななか、佐々木は監督就任当初から一貫して「聖光学院超え」を公言した。

「あれはアドバルーンです」

 佐々木はあえて大風呂敷を広げたのである。

「聖光さんの牙城を何とか崩したいということで、ちょっとくらい嫌われてもいいからそういうことをぶち上げていこうかな、と。『佐々木が吠えているけど、好き勝手やらせちゃだめだよ』と福島のみなさんに立ち上がってもらいたいとか、そこまで大それた想いはなかったですけど、少しは鼓舞していきたいという意味で1年くらい言い続けました」

 勝てていないのに、本当に勝てるのかよ――口に出さずともそんな雰囲気が漂っていたチームの眼の色が変わり始めたのは、19年秋の県大会だ。佐々木が学法石川の監督となって初対戦となった聖光学院との試合で10-2の7回コールド勝ち。新監督は早くも有言実行を果たしたのである。

「どうせ」ではなく「やれる」へ…指揮官が伝えたもの

 佐々木が訴え、注入したかったのは勝者のメンタリティだ。

「どうせ」という枕詞を排除し、「やれる」という自信を植え付ける。それこそが学法石川再建への、大きな第一歩だったわけである。

 就任間もない時期に佐々木が繰り返していた言葉を思い出す。

「育英とは土台が違いますから。覚悟や楽しさを今後は学んでいってほしいですね。敗けるにしても、今の敗けより次の敗けのほうが意味合いは違う。そうやって成長していければいいのかなと思っています」

 実績が物語るように、佐々木は学法石川の監督となってからも敗け続けた。甲子園の出場はなく、聖光学院との直接対決でも初勝利以降は連敗しており、現時点で対戦成績は1勝7敗と大きく水をあけられている。

 敗戦の歴史から、佐々木は学ぶ。

 学法石川に足りないもの。それは覚悟だ。

「『福島県で勝つ覚悟があるのは1校だけだよね』と選手には口癖のように言っているんです。それは聖光学院です。学法石川もそうでしたけど、福島のチームはどこか、『聖光に敗けたらしょうがない』という雰囲気をものすごく感じるんです。夏は毎年のように勝ち続けているチームに勝つ覚悟を持つというのは、非常に難しいことなんです」

 昨年の夏。県大会決勝で聖光学院と相まみえることとなり、佐々木は試合前のミーティングで選手たちにこう説いた。

「今日はビリーブだよ。今までやってきたことを信じて戦ってくれ」

 この試合、学法石川は勝つ覚悟をほとばしらせた。序盤から優勢を保ち、逆転されていた8回には追いつき、タイブレークとなった延長10回表には4点を挙げた。

 あと一歩、だったのだ。これが佐々木の言う、「勝ってきていない者たちが覚悟を持ち続けることの難しさ」だった。

 その裏に5点を奪われ、チームは逆転サヨナラで屈した。

 勝つ覚悟。それを強く持てば格上とも互角以上に渡り合える。反面、少しでも覚悟を疑えば勝利の女神はすぐにそっぽを向いてしまう。夏の決勝で学法石川は、成功体験と失敗体験を同時に味わったのである。

 だから新チームとなった秋も、佐々木は継続して「ビリーブ」を唱えた。

「夏は非常に惜しい試合を逃したので。『最後までやり通せなかったね』ということで、秋の大会でもう1回『ビリーブ』をチームの合言葉にしたんです。どんなことがあっても最後まで信じる。それが、センバツという結果に繋がったんじゃないでしょうか」

指揮官として「6年半ぶり」の聖地へ

 苦節5年半。

 名門校の元監督は、新天地で拒絶されながらも意志を貫き通し、学法石川に勝者のメンタリティを浸透させた。佐々木がまた甲子園に呼ばれたのは、これまでの歩みへのご褒美ではなく必然だったのだろう。

 自身としては17年の夏以来となる甲子園。6年半も遠ざかった聖地は、「テレビの向こう側の世界」になってしまったと笑う。

「ノスタルジックな想いはありますけどね。ピッチャーのボールが速くなっていたり、前に出た時よりも厳しい世界になっているんだろうなとは思いますけど、責任感を持ってこれから準備していきます」

 スカイブルーの伝統のユニフォームが、甲子園に帰ってくる。

 刻まれているのは、勝つ覚悟。

 このように20年以上、聖地から離れた‟古豪”学法石川が甲子園にカムバックできた裏には、佐々木順一朗監督の存在が欠かせない。そんな指揮官の背景には、前任校でも結果を出した「令和の高校野球」の礎となる独自の指導法があった。<つづく>

文=田口元義

photograph by Genki Taguchi