世界最強の称号を得てターフを去った「天才」イクイノックスをはじめ、近年、多くのスターホースが生まれている日本の競馬界。その一方で、大きな期待をかけられながら、さまざまな事情で大成に至らなかったサラブレッドも少なくない。長く競馬界を見つめる筆者が、ファンに鮮烈な印象を残した「消えた天才」の蹄跡を振り返る。前編では、ディープインパクトに出会う以前に武豊が三冠を意識した超良血馬のストーリーに迫った。(全2回の1回目/後編へ)

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 サラブレッドにも「消えた天才」はいるのか。そう問われて、まず脳裏に浮かんできたのはこの馬だった。

 モノポライザー。

 女傑エアグルーヴの半弟である。2001年の秋から翌02年にかけて、武豊を背に、デビューから無傷の3連勝を遂げた。3戦ともノーステッキでの完勝だった。

 スケールの大きな走りで、いくつもの夢を見せてくれたこの逸材には、輝かしい未来がひらけているはずだった――。

名伯楽が武豊に言った「うちの一番の期待馬だよ」

 モノポライザーは、1999年4月4日、ノーザンファームで生まれた。

 父は1995年から2007年まで13年連続リーディングサイアーとなったサンデーサイレンス。母はオークス馬ダイナカール。

 半姉のエアグルーヴ(父トニービン)は1996年のオークスを勝ち、翌97年には天皇賞・秋などを制して年度代表馬となった。

「超」をいくつつけてもいい良血のモノポライザーは、エアグルーヴより6歳下で、母の最後の産駒である。

 サンデーレーシングの所有馬となり、管理するのは、栗東に厩舎を構える伯楽・橋口弘次郎調教師(当時)だった。そして主戦騎手は武豊。

 橋口と武というと、1996年の日本ダービーで2着に惜敗したダンスインザダークが思い出される。菊花賞で雪辱したが、武が「三冠を獲り損ねた」と話したほど大きな期待を寄せていた大物であった。

 デビューを控えたモノポライザーについて、橋口は武にこう言った。

「うちの一番の期待馬だよ」

 調教に跨った武は、「なかなかいい馬だな」「エアグルーヴによく似ているな」と好感触を得た。それが大きな期待に転じたのは、2001年11月4日、京都芝1600mの2歳新馬戦の返し馬に出たときだった。

――うわっ、これは走りそうだ。

 武のその思いに応え、モノポライザーは好位から抜け出し、2着のファビラスキャット(秋華賞馬ファビラスラフインの娘)を軽く1馬身1/4突き放して勝利をおさめた。

「エアグルーヴに“アレ”をつけたような…」

 陣営が次走として狙ったのは、当時、武がまだ勝っていなかった朝日杯フューチュリティステークスだった。

「初戦はいい内容のレースでした。2戦目でいきなりGⅠ勝ちというのは常識的には厳しいでしょうが、狙っていくつもりです」

 武はそう話していたのだが、賞金不足で朝日杯出走は叶わず、前日の500万下に出走。のちに重賞を2勝するメガスターダムを余裕たっぷりにかわして2勝目を挙げた。武は、この勝利によってクラシックを狙える馬であることを確信したという。

 当初、年明け初戦はシンザン記念の予定だった。しかし、「目指すところはマイルではない」と考えていた武の進言により、2000mの若駒ステークスになった。ここも、武が手綱を持ったままで差し切った。これまでの3戦すべてがノーステッキで、上がり3ハロンはメンバー最速という、とてつもなく強い走りを見せつけた。

「三冠を獲り損ねた」とまで言ったダンスインザダークと同じ厩舎のモノポライザーでの三冠獲得の可能性について問うと、武はこう答えた。

「ぼくの印象をそのまま言うと、モノポライザーが三冠を獲っても何ら不思議ではないと思っています。だけど、それでも難しいのが競馬ですからね。相手もいるし、そんなに甘いものじゃないことはよくわかっているつもりです」

 一度もステッキを入れなかったのは、合図としての鞭が必要なく、ほかの扶助でゴーサインだと理解してくれるからだという。走り方も、鞍上から見た耳や首もエアグルーヴとソックリで、「エアグルーヴに金玉をつけたような感じ」と表現していた。

「反応がいいし、すごい切れ味で、乗っていて気持ちがいい」と、のちにディープインパクトにあてるのと同じような言葉で絶賛するほど惚れ込んでいた。

熱発で弥生賞回避、武豊の落馬負傷…狂い出した歯車

 次走は弥生賞になる予定だったが、熱発のため回避。思えば、ダンスインザダークも熱発で皐月賞を回避するなど、春は体調が整い切らない時期もあった。

 さらに、もうひとつのアクシデントが重なる。若駒ステークスの翌月、2月24日、中山でのレース中に武が落馬して骨折、骨盤を数カ所骨折する重傷を負ったのだ。当初は全治3〜6カ月と診断されたが、驚異的な回復力を見せ、本人はモノポライザーでの皐月賞騎乗を目指していた。しかし、ギリギリ間に合わず、後藤浩輝が代打をつとめることになった。

 後藤が乗ったモノポライザーは皐月賞で3番人気に支持されたが、後方から伸び切れず、16着と大敗した。

 翌週、実戦に復帰した武は、まさかモノポライザーがダービーの出走権が獲れる4着までに入らないとは思っていなかったという。

「橋口先生も敗因がわからず、どうしても納得できないので、プリンシパルステークスに乗って、大丈夫なのか、それともどこか悪いところがあるのか、前に乗ったときと同じか違うかを確かめてほしい、と」

 そのうえで橋口は、「ダービーに関してほかに騎乗馬がいるなら、騎手はその時点でいいと思ったほうに乗らなくてはいけない」と言ったという。武はこうつづけた。

「ダービーには、モノポライザーかタニノギムレットのどちらかで出ると思います。どちらが強いのかはわかりません。おそらく、どちらもGⅠホースになると思いますけどね」

「あんなもんじゃないですよ」完全復活には至らず

 断然の1番人気に支持されたプリンシパルステークス。その直線で、武は初めてモノポライザーにステッキを入れた。しかし、内のマチカネアカツキを競り落とすことができず、外から来たメガスターダムにかわされ、3着に敗れた。勝ったメガスターダムは、モノポライザーが2戦目の500万下で2着に負かした馬だったが、逆転を許してしまった。

 武は5月26日の第69回日本ダービーでタニノギムレットの手綱をとり、ダービー3勝目をマークした。後藤が騎乗したモノポライザーは14着に終わった。

 モノポライザーは、次走、武が騎乗したポートアイランドステークスで、のちに重賞を勝つメイショウラムセスを鼻差で差し切り、若駒ステークス以来の4勝目を挙げた。

 しかし、つづくスワンステークスは5着、マイルチャンピオンシップはトウカイポイントの8着だった。

「復活はまだでしたね。ぜんぜん本領を発揮していない。あんなもんじゃないですよ」

 武はそう話した。なぜ走らないのか、原因はつかみ切れていないようだった。

地方・佐賀競馬で迎えた悲しい結末

 翌2003年の京都金杯は5着、河内洋に乗り替わった初ダートの平安ステークスは12着に敗れる。武に手綱が戻った大原ステークスで、大外から一気に差し切り、約1年ぶりに勝利をおさめた。結局、これがJRAでは最後の勝利となった。

 つづく天皇賞・秋で16着、カシオペアステークスで7着となってから武は乗らなくなり、その後、岩田康誠、武幸四郎、柴山雄一、蛯名正義、ミルコ・デムーロ、上村洋行、川田将雅と、さまざまなジョッキーに乗り替わり、芝とダートのいろいろな距離のレースに臨んだが、勝てなかった。

 中央での戦績は、23戦5勝、3着1回。

 7歳だった2006年8月のKBC杯で最下位の14着に敗れたのを最後に、地方の佐賀競馬に移籍した。九日俊光厩舎の所属馬となり、山口勲を背に、2007年の1月から5月まで8連勝を遂げる。佐賀ではその年の7月まで走り、14戦9勝、2着2回、3着2回と、ほぼパーフェクトな成績。移籍初戦以外の13戦すべてで1番人気の支持を得る注目ぶりだったが、7月22日のレースで3着になったあと骨折、予後不良となった。

 武豊と橋口弘次郎という日本を代表するホースマンに大きな夢を抱かせた逸材は、その才能を完全には開花させることなく、世を去ってしまった。3歳春の熱発、武の負傷あたりから歯車が噛み合わなくなったのか。あるいは、どこかに痛いところがあったのを我慢して走っていたのか。もともと馬に聞いてみないとわからないことだし、もはや確かめようがない。

 それでも、若駒ステークスまでの3戦で見せたスケールの大きな走りと、その目撃者となった瞬間の鼓動の高まりは、いつまでも忘れることはできない。

<「シルバーステート編」につづく>

文=島田明宏

photograph by Sankei Shimbun