まるで積年の鬱憤を振り払うかのような雄叫びを何度も上げた。日本ハムの池田隆英は、プロ7年目の2023年に自己最多の51試合に登板。1年間で二軍スタート→一軍の敗戦処理→8回を任されるセットアッパーと成り上がって見せた。

「回り道をしすぎました」と池田自身が苦笑いするように、ようやくたどり着いた居場所だった。

 東京・創価高時代から「プロ注目の逸材」だった。だが、たった1つのプレーで池田の野球人生は暗転する。

 右膝の前十字靭帯断裂――。

 一般的には最後の夏の西東京大会4回戦のバント処理の際に断裂したかのように言われているが、おそらく大会前にはもう靭帯は切れていた。本番を直前にしたある日の練習試合、走者として塁に出た池田は、相手投手の牽制球に対して難なく帰塁したが、その際に体勢を崩した相手野手にのし掛かられたことにより、右膝があらぬ方向に曲がってしまった。

 だが、池田は監督に甲子園をかけたトーナメントで登板を懇願した。

「高校生だと、甲子園しか見えないところがあるじゃないですか」

 テーピングとギプスで右膝をガチガチに固めた。

「もしあの時に戻れたとするなら投げますか?」と問うと「うーん……」と少しだけ間を置いた。

「やらないなあ。やれない。当時のヤバさを今は知っているから」

松葉杖をついて入部した大学時代

 言葉の重みが痛いほど伝わった。

 手術を経て入学した創価大では松葉杖をついて入部し、リハビリに長い時間を費やした。それが終われば万全というほど甘いものではない。バランスが崩れ他の箇所に負担が生じてしまったり、故障以前の感覚で脚を上げることはできなくなったりするなど、過去の自分には戻れなかった。高校から同期の田中正義が鮮烈な活躍でスターダムを駆けあがろうとする中、池田は大学3年時まで未勝利だった。

 4年時に春秋合わせて7勝と活躍し、2016年のドラフト会議で楽天から2位指名。高い評価を受けてプロ入りしたが、プロでも何度も故障に見舞われ、2019年には開幕と同時期に右膝に再びメスを入れた。その年のオフには育成契約を打診され、入団時に「30」だった背番号は翌年「130」と3桁になった。

 2020年は二軍で好成績を収め支配下選手に戻ることはできたが、チームからの期待は高くなく、翌2021年2月下旬に日本ハムへトレードされた。

「もう自由にやろうと思いました。“人の言うことを聞いていても結果は出ないな”と思って、自然とそういう考えにシフトしていきました」

 誰かに対しての批判ではない。どちらかと言えば自己批判の意味合いが大いに含まれている。

「鵜呑みにしすぎていました。“練習をやればいい”“ただ量をこなせばいい”と思っていたんです。例えば、走れと言われて“走っていればいい”と思うんじゃなくて、走ることも必要だし、トレーニングも必要だし、柔軟性も大事。結局いろんなものに適量があるのに、周りに影響されてしまうことが多かった」

 トレードで、よりいっそう「野球人生がいつ終わってもおかしくない」と思えたからこそ吹っ切れた。日本ハムの環境もフィットした。トレーナーも膝の状態を気にかけてくれ、悪いなら悪いなりのエクササイズの提案ももらった。主体性を重んじるチーム方針もあり、体調管理もより細やかになり、2019年に発覚した小麦粉や乳製品へのアレルギーも踏まえた食生活や、睡眠・起床などの体のケアを含め、あらゆることに向き合った。

臨時コーチに訪れた「百獣の王」からアドバイス

 また池田からは意外な人物の名前も出た。

「武井壮さん」

 2年前の春季キャンプ。この年から就任した新庄剛志監督は奇抜とも言える様々な施策に打って出た。その1つに、元陸上十種競技日本王者で「百獣の王」を自称しタレントとして活躍する武井さんが臨時コーチとしてやって来たのだが、そこでも変わるきっかけを得た。

「球を速くしたいんですけど、どうすればいいですか?」

 シンプルに尋ねた。当時は「体重が重ければ重い方がいい」と思っていた。それにも当然、理論的なアプローチはあったが、武井さんは「それもあるけど、神経的なアプローチをした方がいい」と真摯に答えた。この助言をさっそく取り入れた。

「“重いものを持ってから軽いものを持って、速く腕を振る”というものです。腕を振るスピードって脳が判断しているので、そのキャパを上げるために、軽いラケットを振るなどして“腕がもっと振れるんだ”というトレーニングをしていきました」

 すると、鋭い腕の振りから放たれる球速はグングンと伸びていき、2年間で平均球速が4キロも増加。ストレートは常に150キロ以上を計測するようになった。もともと器用で変化球は多彩。軸であるストレートの威力が増したことで、大小様々な変化球が強力な効果を発揮するようになった。

 高校・大学を経て、今も同僚となっている田中が「1球も打てる球が無いようなイニングが多かった」と舌を巻くように、好投を続け、守護神・田中の前を投げる8回の地位を確立した。

 闇雲に言われたことをやり、迷路を彷徨っていた過去に別れを告げ、「エビデンスや答えがあるものを真剣にやっているイメージです」という今にたどり着いた。

 今年の10月で30歳になる。17歳の夏から始まった暗中模索の道のりを経て、たどり着いた成功。「思い描いていた30歳にはなれていますか?」と尋ねた。

「言葉の深さみたいなのがあるじゃないですか。それは出せているのかなと思いますね。いろいろ経験した分、それは凄く感じます」

「去年の成績は超えたい。そうすれば自ずと…」

「もし、あの時……」という誰しもが持つ後悔はいくつもある。怪我で苦しみたくはなかったし、もっとスマートに成功したかっただろう。それでも、その回り道の先で知った気づきや思考は、誰しもが持つ武器ではない。

 回り道をしたからこそ池田の今はある。今年も期待されるのは8回の痺れる場面だろう。マウンドの気迫さながらに「去年の成績は超えたい。そうすれば自ずとチームの勝利も増えるので」と力強く語る“炎のセットアッパー”が、2024年も相手打者の前に立ちはだかる。

文=高木遊

photograph by JIJI PRESS