戦力外通告、飼い殺し、理不尽なトレード……まさかのピンチに追い込まれた、あのプロ野球選手はどう人生を逆転させたのか? 野茂英雄、栗山英樹、小林繁らのサバイバルを追った新刊「起死回生:逆転プロ野球人生」(新潮新書)が売れ行き好調だ。そのなかから野茂英雄の逆転人生を紹介する【全3回の前編/中編、後編も公開中】。

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公立高ピッチャーの“小さな”完全試合

 青春とは、挫折の物語である。

 野茂英雄の野球人生も、挫折の連続だった。名門の近大附属高校のセレクションに落ちて中学の先輩がいる公立校の成城工業高(現・成城高)へ。2年夏の大阪大会2回戦で背番号10をつけて完全試合を達成するも、新聞を広げてみると1学年上のPL学園のKKコンビ、桑田真澄と清原和博が大きく取り上げられ、自分の記事はほんの小さなものだった。

「完全試合はみんなのおかげ。なんだか夢を見ているようです。次は、とにかく勝ち進んでPLと対戦してみたい」

 これは、「週刊ベースボール」1985(昭和60)年8月5日号の初々しい野茂のコメントである。休み時間に早弁を食らう富田靖子の大ファンの高校生は、プロ野球にはほとんど興味を示さず、甲子園とも無縁の環境だったが、自由にプレーできたからこそ、あの独特な投球フォームも監督やコーチに直されることはなかった。

 幼少時に父親から「ザトペック投法の村山実のように体全体を使って投げてこい」と言われ、背中を相手に向けるほど腰を大きくひねり、ため込んだ力を腰に乗せ、一気に解き放つ投球フォームは、のちに野茂の代名詞に。高校時代、その剛球を受け続けた捕手の人さし指は激痛に襲われ、病院へ行くと骨にヒビが入っていた。

「おまえみたいな奴がプロに行けるか!」

 巨人や日本ハムがドラフト外で獲得を検討する一方で、大学や社会人のスカウトからは「あのフォームじゃウチはとらへん」と酷評されるが、社会人野球の新日鉄堺に進んだ先輩が「男だったらひとつくらいは周りに何を言われても変えんもんを持っててええんちゃうか」と言ってくれたという。それ以来、野茂は自分の投球フォームを絶対に変えないと心に誓った。

 ちなみに野球選手のヒエラルキーは一般社会とは逆だ。高卒でプロ入りするほうが、名門大学や大企業のチームでプレーするより選手間の序列は上なのである。学歴や偏差値じゃヒットは打てやしない。だから、高卒でプロ入りして、10代から活躍した清原や桑田は同世代でも別格の存在だ。彼らが8000万円の契約金を手にした1年後、野茂は月9万円の初任給で社会に出た。

 新日鉄堺に進み営業部所轄の野球部でプレーするのだ。

 午前中は職場で通常業務に就き、仕事を覚えろと説教する上司に「僕はプロに行くからいいです」と言えば、「おまえみたいな奴がプロに行けるか」と一蹴された。社会人1年目、都市対抗代表決定戦では、1点を追う8回、野茂が被弾してチームも敗れる。号泣する19歳は、直後の残念会と化した飲み会で、ひとまわり年上の先輩投手・清水信英に別室に連れ出され、エースの心得を説かれた。この時の「マウンドでは一喜一憂するな」というアドバイスを忠実に守り、その後はポーカーフェイスで悔しさを胸に秘め、先輩の投球を見て盗んだフォークボールを磨くのである。

 野茂は2年目からエースとなり、都市対抗ベスト8にも進出。ソウル五輪の日本代表にも選出された。だが、「Number」1009号の「ソウルの選手村に響いた怪物の怒声。」(長谷川晶一)によると、銀メダルを獲得するも、当時の野球は公開競技で他種目の有名な指導者から「君たち、何の競技なの?」と鼻で嗤われたという。野球のユニフォームを着ているにもかかわらずだ。野茂はバスの中で「これがレスリングする格好に見えるか、ボケ! 野球じゃ、アホ!」と怒りを露にする。だが、一方では無邪気に陸上の松野明美にサインを貰うハタチの才能は、世界の舞台を体験したことで凄まじいスピードで進化していく。翌89年には日本・キューバ野球選手権大会で、アマの世界最強軍団に対して野茂は2勝1敗の快投。チームも3勝2敗と勝ち越した。挫折と挑戦を繰り返し、気がつけば、89年ドラフト会議の目玉選手となっていた。

先輩ピッチャー「冗談じゃないよ」

 しかも、元木大介(上宮高)や大森剛(慶大)といった有力選手たちが競うように逆指名会見をして巨人入りを熱望する中、野茂だけは我関せずと希望球団すら口にしなかった。当時、国民的人気を誇っていた巨人にもまったく興味を示さなかった野茂には、史上最多の8球団が競合。

 近鉄が交渉権を獲得すると、投球フォームを変えないことを条件に入団。社会人時代は保険や寮費を引かれて手取り6万円ほどの給料で、ホンダ・シビックの中古車をローンで購入した男は、史上最高額の契約金1億2000万円、年俸1000万円という破格の条件でプロ入りする。

 だが、特別扱いを面白く思わない選手も出てくる。

 ある投手は「オレたちの給料が上がらないのは、実績のない野茂に出しすぎたせいじゃないの。冗談じゃないよ。プロで1勝もしてないヤツに1億円以上も払うのなら、そのぶんをこっちにまわせと言いたいね」なんて公然とルーキーに噛み付いたが、どんなヤツが来るのかと思えば、野茂はキャンプの新人歓迎会で、先輩に注がれるビールを飲み続け、トイレで便器を抱えて酔いつぶれていた。でっかい体で無愛想に見えて、可愛いヤツやないか。同僚に連れられ好物の寿司屋にいけば、食べる量も凄まじかった。ウニ、トロ、イクラ、ネギトロの4種類だけをひたすら食べ続けるのだ。ファミコン好きで、競馬ゲーム『ダービースタリオン』にハマり仲間と盛り上がり、契約金でトヨタ・ソアラを一括払いで買って、寮住まいの選手を乗せて球場までドライブだ。

 普通のありふれた21歳の青春がそこにあったが、本職では別次元の活躍を見せる。春先には「ボクはウエート・トレーニングは苦手なんです」なんて敬遠していたのが、オープン戦で打ちこまれると、「体を作らないとプロでやっていけないと思うので、ウエートを徹底的にやります」とコンディショニングコーチの立花龍司に頭を下げた。

開幕直後は批判されていた

 開幕直後こそ勝ち星に恵まれず、評論家からは球種の少なさや投球テンポの悪さまでを批判されるが、4試合目のオリックス戦で、日本タイ記録の17三振を奪い2失点完投でプロ初勝利。以降は投げれば二ケタ奪三振の快刀乱麻の投げっぷりで“ドクターK”と称され、藤井寺球場にはKボードを掲げて応援するファンが詰めかけた。球団もこの盛り上がりに便乗して、打者に背中を見せる独特な投球フォームのニックネームを募集。決定したのが竜巻を意味する“トルネード投法”である。

 なお、プロ初奪三振はデビュー戦の初回無死満塁の場面で西武の四番バッター清原和博から奪ったものだが、1年目の最終成績は18勝8敗、防御率2・91、287奪三振。あの江夏豊を上回る三振奪取率10・99の日本記録を樹立した。ルーキーイヤーから最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率、ベストナイン、新人王、MVP、沢村賞と怒濤の八冠獲得の快進撃だ。

長嶋茂雄に明かした「大リーグにいきたい」

 世間もそんなニュースターを放っておかず、野茂はコニカの世界最小・最軽量カメラ「ビッグ・ミニ」の広告に「デッカイ手をしてデッカイ仕事をする人もいれば、小さなナリして大きな仕事をするカメラがある」と異例の原寸大の“手だけ”で登場。

 オフになっても勢いは止まらず、新日鉄堺時代の都市対抗野球で一目ぼれした元東芝のマスコットガールと婚約会見した直前に発売された、「週刊現代」1990年11月24日号では、長嶋茂雄との対談が実現した。

「野茂君を見ていると、平成の時代を迎え撃つ新しい風というか、人間離れしたイメージがあるんだね(笑)」なんて褒め殺しをする浪人生活中のミスターから将来の夢を聞かれた野茂は、力強くこう答えている。

「チームの優勝はもちろんですけど、できれば大リーグで野球をやってみたいですね。自分の力を大リーグで試してみたいという気持ちは強いです」

<続く>

文=中溝康隆

photograph by KYODO