昨年10月に引退を発表し、繁殖入りした白毛のアイドルホース、ソダシ。白毛馬として初のGI勝利、GI3勝を成し遂げた伝説的な牝馬は、3月8日に“満6歳”になりました。誕生日を記念してその軌跡を振り返った3歳秋当時(秋華賞前)の記事を特別に無料公開します。(全2回の第1回、初出:2021年10月7日発売Number1037号所収 ソダシ「白馬が紡ぐ運命の糸」 ※肩書き、役職はすべて当時のもの)

元騎手の調教師に舞い込んだ1通のメール

 2013年の秋、須貝尚介のもとに1通のメールが届いた。差出人はオーナーの金子真人で、1頭、預かってほしい馬がいるという内容だった。

 それまで金子との接点はなかったが、須貝が厩舎を開業したばかりのころ、せりの会場や競馬場で会ったときにあいさつしていた。「まだ若手ですが……」と渡した名刺のアドレスに、金子が連絡してくれたのだ。須貝厩舎のゴールドシップやジャスタウェイが活躍していたときだ。

「最初、メールが来たときはうれしかった。あのディープインパクトの勝負服ですよ。だれもがあこがれますよ」

 須貝はきのうのことのように言った。

 須貝尚介は二世調教師である。父の彦三は騎手時代に「四白流星の貴公子」として人気を博したタイテエムで春の天皇賞に勝ち、調教師としても名障害馬ファンドリナイロや地方出身のヒカリデユール(有馬記念)、カズシゲ(高松宮杯)などを育てた。父の厩舎で騎手になった須貝は23年間で302勝(重賞4勝)という成績を残し、'08年3月に調教師試験に合格すると同時に騎手を引退している。

「自分は体重でも苦労したし、怪我も何度もしたので、ずっと調教師になろうと思ってました。でも、いまの自分があるのは、反面教師でもある親父のおかげかな」

こんな馬をやらせていただけるのか

「反面教師」となった父はどんな人だったのかたずねると、須貝は「言いたくない」と笑った。

 '09年に厩舎を開業した須貝はすぐに結果をだす。4年めには46勝をあげてリーディングの6位に躍進し、ゴールドシップらの活躍で重賞も9勝(GI4勝)した。金子からメールが届くのはその翌年のことだ。

 金子から託された最初の馬はブラヴィッシモという牡馬で、阪急杯3着などオープンクラスで活躍した。それからも金子はつづけて馬を預けてくれ、毎年秋になると、1歳馬の名前を記したメールが届いた。

 '19年秋。金子からのメールには3頭の名前があった。そのなかに白毛の牝馬がいた。須貝はすぐにノーザンファーム空港牧場に馬を見に行っている。

「真っ白で、すごいきれいな馬だった。こんな馬をやらせていただけるのかと思うと、オーナーには感謝しかなかった」

須貝が演出した「ソダシ&今浪厩務員」コンビ

 ソダシと名づけられた白毛馬が栗東トレーニングセンターの須貝厩舎にきたのは2歳の4月だった。須貝は今浪隆利を担当厩務員にした。ゴールドシップも担当していた、須貝の信頼も厚いベテランである。「競馬をドラマとして演出するのも調教師の仕事」と考えている須貝は、ゴールドシップの今浪が真っ白な馬を引いていたら話題にもなるし、画にもなるだろうと思った。

 今浪は'58年に福岡県北九州市に生まれた。生家は小倉競馬場の近くで、競馬好きな父に連れられて競馬場に行くうちに馬が好きになり、名古屋競馬場で騎手見習いになった。しかし、体が大きくなり、3年で騎手を断念、「中央で馬を育てる仕事をしたい」と思い、栗東の内藤繁春調教師を紹介してもらう。当時、内藤が育成牧場にしていた優駿牧場で1年間研修し、内藤厩舎にはいった。内藤厩舎には6年ほど勤め、中尾正厩舎に移るとシングルロマン(京阪杯)、ビッグシンボル(阪神大賞典2着)などのオープン馬を担当した。今浪は言う。

「中尾先生の下ですごくいい勉強をさせてもらいました。そのひとつが馬の脚元のチェックを欠かさないことで、いまも毎朝、休みの日も、馬の顔を見て、脚元をチェックするのが日課になってます」

たのしそうに笑いながら振り返るゴールドシップのこと

 中尾正が定年で引退した年に新規開業した須貝厩舎に移った今浪は、'10年からゴールドシップを担当するのだが、2歳のころはおっとりとした馬だったと言う。

「おとなしくて、ぜんぜん歩かなかった。それが、3歳になってからあれがでてきて」

 それからは、噛まれるのはしょっちゅうで、一度暴れたら収まりがつかず、まわりの馬も近づかせない。つねに周囲の馬を気にしながら、「毎日、何十回も『すみませーん』って謝りながら馬を引いてました」と言って、今浪はたのしそうに笑った。

 そんな今浪が担当になったソダシは夏の北海道でデビューすることになった。その前の調教で須貝は吉田隼人を乗せている。'18年の秋、ひとりで関東から栗東にやってきた吉田は「調教を手伝わせてもらえませんか」と須貝に頼んできた。

隼人は、競馬にたいしてまじめ

 吉田は'08年のスプリンターズステークスで須貝彦三厩舎のタニノマティーニ(8着)に乗せてもらったことがあるが、須貝尚介が調教師になってからのつながりはなかった。だが、飛び込みでやってきた吉田はレースでもしっかりと結果をだし、須貝厩舎の主戦を担う騎手のひとりになっていた。須貝も「まじめな男」と評価している。

「隼人は、競馬にたいしてまじめ。いや、まじめになったのかも知れないけど(笑)、頑張ってくれてますよ」

 ソダシに跨がった吉田は驚いた。

「跨がってみて、すごい能力あるなと思った。背中のバネもよかった。須貝先生が『北海道に行くなら乗せてやる』と言うので『ぜひ、お願いします!』と」

 ソダシのパートナーが決まった。

8歳上の兄も騎手、関東で活躍してきたが…

 吉田隼人は8歳上の兄、吉田豊の姿をテレビや競馬場で見てジョッキーを志した。兄が騎手になったのは吉田が小学4年のときで、5年から乗馬をはじめたが、まだ怖さがあった。しかし、兄がメジロドーベルで勝ったオークスを東京競馬場で見たとき「ジョッキーになりたい」と本気で思った。それからは乗馬にも真剣に取り組んだ。JRA競馬学校は中学3年から受けて、高校2年で合格する。

 デビューした'04年は3勝にとどまったが、3年めには60勝をあげると、以後コンスタントに勝ち星をあげ、ゴールドアクターで有馬記念に勝った。派手さはないが、技術の高さはだれもが認める騎手だ。

 そんな吉田が関西行きを決断したのはゴールドアクターが引退したころだった。

吉田に栗東行きを決断させた 「後悔したくない」という思い

「以前から、ローカル開催で関西馬に乗せてもらう機会が多かったんです。乗ってみると、ああ、いい馬だな、どんな調教してるのかなと思って、栗東トレセンで調教から乗せてもらいたいというのがあった」

 吉田には将来は調教師になりたいという思いもあり、そういう意味でも栗東の調教法に興味があったのだが、関西に活動拠点を移せば、いままで世話になっていた関東の厩舎に迷惑をかけることにもなる。また、元来が前向きな性格ではなく、人とコミュニケーションをとるのも苦手な吉田は、苦労するだろうなという思いもあった。それでも栗東行きを決断させたのは「後悔したくない」という思いだった。

「残りの騎手人生を考えたとき、あのときに行っておけばよかったなと後悔したくなかったので、思いきって」

 独身ゆえの身軽さもあった。賃貸の家を引き払い、車と身ひとつで栗東に来た。最初の1年ちょっとは若手と一緒に独身寮で生活し、いまはトレセンに近い街にアパートを借りている。

栗東にきて1年半、吉田隼人が出会ったソダシ

「デビューして5、6年は寮生活でしたが、仕事に集中できる環境ですし、初心に戻れたという感じで、いい機会でした」

 最初は売り込みもなかなかできなかったが、調教に乗せてもらい、それがレースにつながり、勝つと、また別の厩舎から声がかかった。やっぱりこの世界は結果がすべてだなと思う。勝って喜ばれ、「こちらこそ」と礼を言う。その繰り返しだ。

 そうして吉田隼人はソダシの背に跨がった。栗東にきて1年半がすぎていた。

<つづく>

文=江面弘也

photograph by Naoya Sanuki