女子長距離の元実業団ランナーで、現在はモデルとして活動する國立(こくりゅう)華蓮(かれん)さん(23歳)。中高時代、過度な食事制限による無月経に陥り、当時のリアルな体験談を積極的に発信している。高校卒業後、女子駅伝の強豪・パナソニックに所属するもわずか2年で現役引退。現在はモデル業の傍ら、大学で心理学を学んでいる。彼女がこれほど早くシューズを脱いだのはなぜなのか。そして、前例のないモデルの道に進んだ理由を聞いた。《NumberWebインタビュー第2回/前編から続く》

 中高時代の過酷な体重管理の恐怖から抜け出した國立さんは、高校3年時にインターハイ3000mに出場。そこでの走りが評価されたこともあり、強豪チームのパナソニックへの所属が決まる。だが、元々は高校で競技から離れるつもりだった。

「高校2年まではかなりメンタルが沈んでいたので『絶対あと1年で辞める』と思っていました。でも、無月経を克服したらタイムも出るようになり、もう少し頑張ってみたいなと思って。結局、叶えられなかったのですが、陸上を始めた頃から都道府県駅伝に出たいという夢もあったんです」

高校卒業後は“実業団女子最強チーム”へ

 当時のパナソニックは、クイーンズ駅伝を2連覇中の“実業団女子最強チーム”。世界クロカン元代表の堀優花や森田香織をはじめ、世代トップで活躍する選手が集っていた。中高と全国大会に出場していたとはいえ、入賞実績がない國立さんに声がかかるのは異例のケースのようにも思える。そこにはどんな経緯があったのだろうか。

「県総体での走りが目に留まったようで、向こうから声をかけてくれました。他にもいくつかのチームから勧誘されていたのですが、レベルの高いチームの中で練習したかったし、一番勢いのあるチームがいいなって。今思えば、私の記録で入ってすみませんという感じですが……(笑)」

 入部当時、國立さんの自己記録は3000m9分36秒42、5000m16分53秒60。「チームの中では最下位でした」と振り返る。それでも勧誘されたのは、中高と専門の指導者不在の中でも全国レベルまで成長を遂げたポテンシャルゆえだろう。

 2019年春、現キャプテンの中村優希らとともに入社。だが、間もなくして周囲からの要求と自身の能力の間に大きなギャップを感じることになる。トップレベルの練習についていけず、プレッシャーに心がすり減っていった。

 実業団時代を振り返ると、その表情に陰りが見える。

「本当に大変というか……とにかく辛くて。パナソニックは練習量の多いチームですし、選手みんなが主体的に動く雰囲気が強かったんです。なんとかついていこうと必死だったのですが、体調が噛み合わなくて。練習が積めてきたと思ったら腹痛が酷くなったり、脚を怪我したりで、なかなか試合にも出られませんでした」

 陸上を始めた頃から、誰よりも必死に練習を積んできたつもりだった。だが、強豪チームの練習量やトップ選手の意識はそれ以上だった。

「とにかくストイックな選手が多かったんです。合宿中の空き時間も補強やジョグをしているし、朝起きたら部屋に誰もいないこともあって。特に堀先輩なんて『いつ休んでるんだろう』って思うくらい、いつも動いていましたから。でも、私は本練習についていくことで精一杯。本来なら一番下の私が誰よりも頑張らなきゃいけないのに、それができないことがしんどかったですね」

ある日、布団の中から起きられなくなり…

 心理的な負担からか、原因不明の体調不良が続き、前半シーズンは一試合も出られずに終えた。

 ダメ押しとなったのは、北海道での夏合宿中の出来事だ。ある日の朝、布団の中から起き上がれなくなった。心と身体は、バラバラになっていた。

「もちろん日本代表になるような選手もいるチームですし、上には上がいると分かってはいたのですが、どうしてもしんどくなってしまって。監督に伝えたら『一度実家で休養してこれからどうするか考えておいで』って言われました。そのときは心が限界だったので、もう辞めるつもりでした」

 愛知県一宮市の実家では、1カ月間、ほとんど走ることなく過ごした。それでも復帰を決めたのは、「このまま引退したら後悔する」との思いがあったからだ。

「同じ部署の方や、新人研修で出会った子たちがすごく応援してくれてたし、地元の友人も『また走る姿を見たいな』って言ってくれて。まだやり残したことがあるし、あと1年だけ頑張ろうって思ったんです」

 まずは自分のできる範囲内で、よく食べて、よく寝て、体調を整えよう。そう吹っ切れた気持ちで横浜の選手寮に戻ると、意外にも調子が上がっていった。11月末の日体大記録会3000mで、自己記録に迫る9分38秒78をマーク。徐々に走る楽しさを取り戻していった。

 そして挽回のチャンスが回ってくる。年明けの選抜女子駅伝北九州大会で、國立さんは駅伝初出走を果たすはずだった。だが、大会数日前、3000mのタイムトライアルを走った直後、歩けないほどの激痛が襲った。診断結果は、立方骨の疲労骨折。チャンスは手のひらからすり抜けていった。

「自分の中ではようやく中高時代のような気持ちを取り戻せていたんです。その時、チーム内にけが人が多かったこともあり、私がかなり走れていたので『期待してるよ』と言われていたのですが……。遅れを取り戻そうと焦って、練習をやり過ぎてしまったのだと思います」

 中高時代の過度な食事制限も原因だったのか、疲労骨折はなかなか完治しなかった。

 社会人2年目に走ったレースはわずか1、2本。同年代の選手が活躍する中、自身の存在意義が揺らいでいった。

「同じ愛知で走っていた山本有真ちゃん(現積水化学)や、近藤幸太郎くん(現SGH)がすごく結果を残しているのに、なんで自分はこんなに情けないんだろうなって。負けたくないっていう気持ちは強いのに、身体はしんどくて、めまいが起こることも多かったんです。明確な引き金があったわけではないのですが、『もう休みたいな』という気持ちになりました」

 2021年2月に引退を発表。入社からわずか2年のことだった。

引退後は…モデルスクール、大学受験の予備校にも!​

 引退して間もなく、大学受験の予備校に通い始めるとともに、東京のモデルスクールへの入会を決める。晴れ晴れとした気持ちで競技から離れたわけではない。それでもすぐに新たな挑戦を決断できたのはなぜだろうか。

「そのまま会社で働き続けるという選択もあったのですが、自分はもっと外の世界に出て色んなことを経験したかった。幼い頃から芸能関係の仕事に興味があって、モデル事務所に登録していたこともあったんです。ちょうど引退を考えていた時期に、『Nizi Project』が放送されていて、自分もやらずに後悔するなら『挑戦してみよう』って」

 デビューを夢見る10代の少女たちが、人生を賭けて挑戦する姿に勇気をもらった。月に数回、名古屋から東京まで夜行バスで向かい、実業団時代に貯めたお金を取り崩し、レッスン料に充てた。

 現在は名古屋市内のモデル事務所に所属。「まだまだ実力不足なのでどんどん仕事がくるわけではありませんが……」と謙遜するが、ウェブCMやスポーツウェアのモデルなど、少しずつ活動の場を広げているようだ。

 中高時代、過度な体重管理に悩んでいた國立さんだが、モデル業に求められる体型も近しいものがあるように思う。ただ、今はもっと前向きに、自身の身体に向き合えているという。

「確かにモデルを目指し始めてすぐの頃は、運動量も減った分、昔のような無茶な食事制限をしてしまったこともありました。でも、今ってすごくスレンダーなモデルもいれば、プラスサイズモデルとか色んな体型の方が増えていますよね。

 私ももし、体重が増えたとしてもリアルサイズで参考になればいいなと思っていて。これから身体を絞っていくにしても、正しい方法で適度にやっていけば、誰かのお手本になるかもしれないですし。自分なりの体型が作れればいいかなって思っています」

現役時代に感じた「女子選手へのサポート課題」

 また、現在はモデル業と並行して大学にも通い、心理学を学んでいる。昨年は1年間、モデル活動をはじめ、自分と向き合うために休学していたが、春から復学する予定という。心理学を専攻する背景には、現役時代に感じた女子選手へのサポートの課題がある。

「トレーニングやフィジカル面に関しては専門的なトレーナーやコーチがいる一方、メンタル面のサポートが足りていないのではと感じていたんです。実際、色んなチームを見ていると、摂食障害や精神的な理由で引退してしまう女子選手もいました。

 男性選手が5年、10年と続けている一方、女性選手は1、2年で競技から離れるケースが多いように感じています。女子選手の感情に寄り添える存在がいれば、もっと長くのびのびと続けられるのではないかと思っていたんです」

 國立さん自身、精神的に追い詰められた時、周りに相談できず、ネットのコラムなどを読んで対処法を探っていたという。現在、SNSでは選手としての気持ちの持ちようについても発信している。

 駆け出しのモデル業、大学での心理学の勉強、そして地元でのジュニア選手の育成。波乱万丈な競技人生を経て、様々な方向に可能性を広げている。将来的にはどのようなビジョンを描いているのだろうか。

「色々浮かんではくるのですが、一番は選手に対して健康指導や心理的なサポートを続けていきたいです。また、芸能関係ではモデルだけでなくもっと幅広いジャンルにチャレンジできればと考えています。今まで家族とか色んな人に心配もかけてきましたが、自分の可能性を閉じることなく、広げていきたいなと思っています」

文=荘司結有

photograph by Miki Fukano