戦力外通告、飼い殺し、理不尽なトレード……まさかのピンチに追い込まれた、あのプロ野球選手はどう人生を逆転させたのか? 野茂英雄、栗山英樹、小林繁らのサバイバルを追った新刊「起死回生:逆転プロ野球人生」(新潮新書)が売れ行き好調だ。そのなかから小林繁の逆転人生を紹介する【全3回の中編/前編、後編も公開中】。

◆◆◆

「空港から連れ去られて…」

 1979年1月31日午前11時50分、宮崎キャンプに出発するため羽田空港国内線第1出発ロビーに到着した小林繁は、チームメイトたちに合流しようとしたら、球団関係者に呼び止められる。質問をしても何も答えてもらえず、紺のスーツの袖を引かれ誘導された先には、読売新聞社の社旗をはためかせた黒塗りのハイヤーが停まっていた。全身から血の気が引く思いがしたという、この時の衝撃を、小林は自著でこう振り返っている。

「崖から突き落とされた思いを打ち消そうとするのだが、まぎれもなく今オレは、空港から連れ去られようとしている。/どうしようもない動揺を隠す術もなく、オレは紺野庶務部長に促されるまま、車に乗り込んだ。/突然、思いもかけぬ事件にまき込まれたオレは、頭の中が混乱するばかりで、ただぼうぜんと車の外をながめるしかなかった。/ふと気がつくと、車は高速1号線を走っていた。この間の数十分は、まさにオレにとっての『空白の時間』だ」(『男はいつも淋しいヒーロー』プロメテウス出版社)

「本当にそんなことができるのか?」

 前年秋から、日本列島は江川卓の“空白の1日”問題で揺れていた。球界には「ドラフト会議で交渉権を得た球団が、その対象選手と交渉できるのは、翌年のドラフト会議の前々日まで」という、いわば会議前日は準備にあてるための事実上の紳士協定が存在したが、巨人はその野球協約の盲点を突き、「ドラフト前日はフリーの身分になるので契約可能」と強硬に主張。

 1978年11月21日、前年にクラウンライターライオンズ(1978年秋、西武グループの国土計画〈現・コクド〉が買収して西武ライオンズに)から1位指名を受けながら入団拒否していた、浪人中の江川との電撃契約を発表する。

 しかし、セ・リーグ会長の鈴木竜二は契約を認めず、巨人だけがボイコットした1978年11月22日のドラフト会議では、1位江川で4球団競合の末に阪神が交渉権を獲得。だが、その後も事態は二転三転し、金子鋭コミッショナーからの「強い要望」もあり、球団間のトレードでの解決が模索されるわけだが、その交換相手に選ばれたのが、エース格の小林だった。

 新聞報道で江川騒動を追いながら、小林はチームメイトと「そんなことが本当にできるのか?」と話し、先輩とのゴルフでは落としどころのトレードで、その相手は「ボクか高田(繁)さんじゃないかな」とすら口にしていた。年末のサンケイスポーツでは「江川譲り小林」の見出しが一面を飾ったが、それでも、いざ自分が指名されたとなると頭がまっ白になった。サラリーマンの飲み会で次に異動させられるのはアイツ、いやオレかもなんて冗談で盛り上がって、実際に飛ばされたのは本当に自分だった……みたいな展開だ。

「これは茶番劇だ」

 空港で車に乗せられ、連れて行かれたのはホテルニューオータニの5710号室。そこでひとりで待っていた長谷川実雄球団代表から、「なんとか事情をくみ取ってもらいたい」と阪神行きを宣告される。相談ではなく、移籍通告である。もちろん考えさせてほしいと言ってはみたものの、巨人のリーグ脱退・新リーグ設立まで報じられる異常事態を鎮めるために、最後は誰かが行くしかないのは分かっていた。

 同日の午後4時、東京・芝の東京グランドホテル「菊の間」では、阪神の小津正次郎社長と江川が並び入団会見が開かれる。阪神・江川誕生も、記者陣からはすかさずトレード前提の茶番劇と糾弾された。

「野球をやめます」

 そして、小林の方は午後1時から7時間ほど滞在したホテルの裏口から出て、報道陣の車に追われながら巨人の球団事務所に連れて行かれ、夜8時半から重役たちとの話し合いが始まる。巨人側の正力亨オーナーだけでなく、阪神側の小津社長もその場にいたという。

 小林は相談相手の知人も同席させていたが、納得のいく説明もなく、「もし君が今日のうちに納得してくれなかったら、事態は収拾のつかないことになる」なんて泣き落としをかけてくる、お偉いさんたちが次第に哀れに思えてきた。小林は前述の『男はいつも淋しいヒーロー』の中で、その時の心境をこう振り返る。

「オレには最後の切り札『野球をやめます』の一枚が残っている。相手には、これを防げるカードも、時間も残されていない。どこからどう見ても、オレの勝ちだ」

「巨人から5000万円ももらってません」

 午後11時を過ぎても巨人球団事務所へのファンからの抗議の電話は鳴り続け、女子職員たちは帰宅できず、200人以上の報道陣がその場に詰めかけ、騒然としていた。

 もうこんな馬鹿げた騒ぎは、オレが終わらせてやる――。小林が「結論から申し上げますと、阪神にお世話になることになりました」と記者会見を開いたのは、日付が変わった79年2月1日午前0時18分のことだった。

「僕に対する世間の感情っていうのは、可哀想とか、そういうふうに取られるとは思うんですけども、あくまでもプロ野球の選手ですので、向こうに行ってからの仕事で判断していただきたい。同情は買いたくないってことですね」

 無数のフラッシュの光の中で、そう毅然と口にする26歳の小林は、ある意味大人だった。入団時にドラフト1位と同等の契約金を要求し、契約更改では毎年のように球団と激しくやり合い、「ボクは1円でも上がるまで諦めませんよ。ボクが野球をやめるか、常務が職を辞するかのどちらかです」と迫ったこともある。

 トレードの際に巨人側と交渉をした補償金は5000万円超えという報道もあった。なお、現役引退直後の「週刊ポスト」1983年11月25日号で、小林は補償金について聞かれ、笑いながら認めている。

「巨人からは、言われてるように五千万円ももらっていませんが、ちょっともらいましたよ(笑)」

◆◆◆

《こうして“悲劇のヒーロー”は阪神へ移籍した。そこから小林の逆転人生が始まるのだ。》

<続く>

文=中溝康隆

photograph by KYODO