2018年、「金農旋風」で甲子園を沸かせた秋田県立金足農業高校。今から40年前の1984年にも、桑田真澄、清原和博を擁するPL学園と激闘を演じた「第一次金農旋風」があった。若き熱血監督に率いられた雑草軍団のドラマに迫った。(全2回の1回目/後編へ)

知られざる「第一次金農旋風」前史

 今からちょうど40年前の甲子園で、まばゆいばかりの光を放ったチームがあった。秋田県立金足農業高校。第100回記念大会(2018年)で「金農旋風」を巻き起こす34年も前のことである。

 高校野球の主役が「やまびこ打線」の池田(徳島)から「KKコンビ」のPL学園(大阪)に移って迎えた1984年の春、金足農は第56回選抜高校野球大会で初めて甲子園の土を踏み、1回戦で甲子園初勝利もあげた。

 さらに同年夏の第66回全国高校野球選手権大会にも出場すると、秋田県勢初となる1大会4勝をあげ、準決勝で「KKコンビ」のPL学園と対戦。8回裏1死まで2−1でリードを奪う大接戦を演じた。

 どんな名勝負や快進撃にも、前史があるものだ。金足農にとっては、その3年前の1981年がターニングポイントになった。

 全国的には、2年生になった早稲田実(東東京)の荒木大輔が、3回戦で金村義明の報徳学園(兵庫)に敗れた第63回全国高校野球選手権大会があった夏だ。名古屋電気(現・愛工大名電)の工藤公康が2回戦で無安打無得点試合を達成した大会でもあった。

 この大会に秋田から初出場を果たしたのが秋田経大付(現・明桜)だった。初出場とは言え、卒業後に住友金属を経てプロ野球の大洋(現・DeNA)に入団する右腕の松本豊を擁して、春夏連続出場で両大会とも甲子園で2勝している。

 その秋田経大付に秋田大会決勝で敗れたのが金足農だった。こちらも右横手投げの好投手、桜庭広喜を擁して対抗し、8回を終わって1−1という接戦に持ち込んだ。しかし、9回表に1点を勝ち越されて涙をのんでいる。

 実は1学年上の代も、金足農は秋の県大会で決勝まで勝ち進んでいる。西武、中日で先発投手として活躍した小野和幸を擁して勝ち進んだが、やはり速球派投手の高山郁夫(のちにオリックスの投手コーチとして山本由伸らを育成)がいる秋田商に敗れた。

「周辺のでけえのに目をつけ、頑丈なやつを集めて…」

 監督の嶋崎久美は当時33歳。若き熱血漢も「自分は甲子園に行けないのかもしれない」と弱気になったという。銀行員をやめ、母校の監督に就任して10年目。OB会にも励まされ、もう一度、前を向いた。

 金足農は秋田市の北西部にあり、隣接する南秋田郡など周辺の農家の子息が通ってくる。第100回大会(2018年夏)に準優勝投手となった吉田輝星(現・オリックス)も、南秋田郡天王町(現・潟上市)の出身だ。先述の小野は金足農の近くにある秋田北中に通っていた。「周辺の郡部から上がってくるし、市内の生徒もいるけど、市内中心部から下っては来ない」と関係者は自嘲気味に語る。

 嶋崎も「最初のうちは無名な選手ばかりでした。中学校では補欠だった選手も多かった」と振り返る。それでも、猛練習でたたき上げた選手が徐々に成績を残すようになり、甲子園に手が届きそうになっていた。

 夏の秋田大会決勝で惜敗した1981年は、小野の出身中学である秋田北中の3年生に、水沢博文という好投手がいた。父も金足農の野球部OB。父の母校に進学し、親子の夢でもある甲子園出場を果たそうと決めていた。

 中学2年のときにエースとして全県大会に出場した水沢は、県内では知られた存在だった。

「水沢は、うちに来るぜ」

 のちに水沢とバッテリーを組む長谷川寿は、嶋崎からそう声をかけられたと記憶する。

「八郎潟町(南秋田郡)からも、いいショートが来る」。1番を打つことになる工藤浩孝だ。

「ほかにも水沢が行くならと、いいのがいっぱい入るぜ」

 長谷川に言わせれば、「周辺のでけえのに目をつけ、頑丈なやつを集めて鍛え上げるのが嶋崎監督のやり方」だった。

 身長180センチの長谷川は、自身が中学3年の年に甲子園に春夏とも初出場して2勝ずつを挙げた秋田経大付の「縦じまのユニホームに憧れがあった」という。伝統校の秋田商も考えていたが、嶋崎の誘いを受けて「じゃあ、金農にいこうか」と決断した。

 水沢を軸に3年計画で、もう一度甲子園を目指す――。嶋崎率いる金足農の挑戦が始まった。

 長谷川の記憶では、入学した時、3年生部員は9人に満たず、2年生も15人ほど。水沢も長谷川も、入学早々に試合で起用された。夏の大会も水沢はセンターを守り、長谷川も二桁背番号ながら先発マスクをかぶった。準々決勝で秋田商に0−3で敗れたが、秋からはレギュラーの半分ほどが1年生になった。

上野駅のホームで度胸試し「長谷川、歌え!」

 そして、長く厳しい冬がやってきた。

 金足農の冬季練習と言えば、雪深いところでひたすら体力トレーニングに励む「田沢湖合宿」が有名だが、当時はまだスタートしていない。ただ、ボールは一切使わず、「ひたすら疲れる練習に取り組んだ」と長谷川は苦笑する。とにかく走る。それから腕立て伏せ、腹筋……。

「厳しさの向こうに何かがある、という考え方。苦しみゃいい、疲れりゃいい。そんな感じだった」

 監督の嶋崎は、第一に体力、次に精神力、そして技術という考え方だった。

「まず土台になる体力。徹底的に昭和のやり方で頑丈な体をつくる。その過程で精神力を養い、その先に初めて技術を身につけていく」と懐かしむ。

 長い冬が明ける3月下旬の春休みには、関東遠征に出かけた。秋田より早く暖かくなる千葉と埼玉で練習試合を組んだ。

 嶋崎監督はアイデアマンで、突然、突拍子もない指示を出す。

 遠征を終えて帰路につく上野駅のホーム。

「長谷川、歌え!」

 突然、そう言われた。

 歌わないわけにはいかない。

 千昌夫の大ヒット曲「北国の春」を、大きな声で熱唱した。居合わせた人びとの視線がつらく、恥ずかしかった。

 別の機会で監督から指名された水沢は、ニック・ニューサの「サチコ」を歌った。水沢の母と同じ名前のヒット曲だった。

「水沢は甲子園のベンチ前でも歌った。度胸試しです。体力の次に大切にする精神力ですね。嶋崎監督のあの手、この手で鍛えられました」

 体力、度胸、そして経験。2年夏は秋田大会を圧倒的な強さで勝ち進んで決勝へ。秋田に0−3で敗れたが、水沢―長谷川の代は貴重な経験を重ねた。

 いよいよ自分たちの代になり、金足農は秋季秋田県大会を制して東北大会へ。ここでも力強く勝ち上がった。決勝は延長16回の末、大船渡(岩手)に3−4で惜敗したが、翌年春の選抜大会出場に大きく近づいた。

 1984年2月1日、第56回選抜高校野球大会の選考委員会が開催され、金足農の甲子園初出場が決まった。

 その日から、選手らは同校内の宿泊施設で長期合宿に入った。

「不祥事があってはいけないと、嶋崎監督が僕らを軟禁したんです(笑)」

 主将を務めた長谷川が苦笑いで懐かしむ。夜中に起こされ、大部屋に集められたこともあった。

「それぞれのポジションで守っている構えをしながら瞑想する。精神統一だと言われました。いろいろ、ありました」

 そうして迎えた初の甲子園。金足農の選手たちは大舞台で躍動した。

<続く>

文=安藤嘉浩

photograph by Yoshihiro Ando