シーズンに向けた準備は整った。3月24日、佐々木朗希投手はバンテリンドームナゴヤでプロ5年目のオープン戦を終えた。5回を投げて被安打2、無失点。マウンドでは躍動感あふれる姿を見せ、何度も頷きながら納得した表情でベンチへと戻ってきた。

「いい感じで投げることが出来たかなと思います。フォーム的にもいい感じ。やりたかったことが出来たと思います」とうなずいた。

苦しんだオープン戦

 2月25日(韓国ロッテ、糸満)、3月3日(ライオンズ、高知)、3月10日(ホークス、ZOZOマリンスタジアム)、3月17日(イーグルス、ZOZOマリンスタジアム)、そして名古屋――。2月初旬の石垣島キャンプ第1クール中に決めていたシーズンまでの道筋だ。しかし、なかなか思い描くパフォーマンスを発揮できない日々が続いた。

 特に3月17日のイーグルス戦は4回を投げて被安打6、4失点。「真っすぐに力がなかったですし、コントロールも思うようにはできなかった。ごまかしながら投げた感じ。しっかりといいフォーム、いい出力で投げられるようにしていきたい」と本人も試合後のメディア取材で苦しんでいる部分を素直に口にした。

 周囲から不安視する声も出始めたが、見守る吉井理人監督は涼しい顔で動かず見守った。2月下旬の宮崎遠征の練習中に少し声をかけたぐらいで、あえて多くは伝えなかった。指揮官は言う。

「フォーム的な部分に修正すべきことがあるのはキャンプの早い段階から分かっていたけど、本人も気づきかけていたし、色々と考えているようだったので特にこちらからは何も言わなかった。そうやって人は成長していく」

あえて見守った吉井監督

 ヒントを与えるのは簡単。しかし、自分で考えに考えて壁を乗り越えることが出来れば大きな成長へとつながる。吉井監督は下半身の使い方、特に踏み込みが気になっていたと言う。しかし、オープン戦最後のマウンドで佐々木はしっかりと自らの手で答えを導きだした。実際に期待に応え、100%のパフォーマンスを披露してくれたことに目を細めた。

 試合後、佐々木はメディアからの問いに手応えを口にした。

「自分の感覚とバッターの反応が一致したのでよかった。真っすぐでバッターを差し込めた。今日はやりたいことができた。感覚的なことで上手くは表現できないけど、コーチ、トレーナー、アナリストの方など色々な人に協力をしてもらいながら良い形を見出し、良い状態にすることが出来ました」

 周囲への感謝の思いが口をついた。

飛躍のきっかけは名古屋から

 バンテリンドームナゴヤのマウンドと佐々木は相性がいい。本人は「特別相性はいいとは思わないけど、投げやすい」と話すが、昨年、WBC日本代表メンバーとして壮行試合で先発した際は165kmをマークしたこともある。

 飛躍のきっかけを掴んだのも、この場所だった。2021年8月3日のことだ。東京五輪の開催を受けてプロ野球のペナントレースは小休止。エキシビションマッチという練習試合が組まれ、マリーンズは名古屋にいた。佐々木はこの年、プロ2度目の先発登板となった5月27日、甲子園でのタイガース戦でプロ初勝利を記録したが、その後は勝ち星から遠ざかっていた。5月は2試合に投げて初勝利はしたものの防御率4.50。6月、7月も調子が上がらないままオールスター後の中断期間に突入した。

 五輪期間中ということもありメディアは全く注目していない試合だった。取材に来ていた担当記者は2人だけ。テレビ中継もなく、この時の投球に関する報道はほとんど残っていない。佐々木はその試合に先発して5回を投げ被安打1。5回にパスボールの間に1点を失ったが4回までは中日打線相手に一人の走者も許さないパーフェクトピッチングだった。4回には三者連続で空振り三振に抑えた。ストレートは走り、唸りを上げていた。

上昇カーブの予感

「指のかかりがよかった。甘いところにいっても安打にされず、打ち取ることも出来た」

 手にした自信をそう明かしていた。

 感覚を掴んだ佐々木は8月以降、6試合に投げて37イニングで2勝0敗。被安打21、44奪三振で四球はわずか5つ。防御率は1.22という成績を残すことになる。中でも10月は3試合19イニングで自責点1という驚異的な結果を出すことになった。そして翌22年4月、完全試合の偉業へと繋がっていく。きっかけとなったのは名古屋のマウンド。今シーズンもまた、ここから同じ上昇カーブを描く予感がする。

 佐々木は開幕を前にした会見で「球速はまだ上がると思う。状態も、もっと上がると思いながら調整をしていく」と力強く話し、「ここまでフォームがしっくりこなかったことはあったけど、それを色々と手探りの中でやって考えて状態を上げていくことができた。このことはシーズン中に生きてくるかなと思う」と語った。

「3.11」を背負う使命

 狙い通り、自らの手で答えを掴んだ若き右腕の姿には吉井監督も満足顔だ。「本当をいうと前回の登板の途中ぐらいから何か見つけたような感覚になっているかなと思っていた。それを今回は出してくれた」と目尻を下げた。

 ルーキーイヤーから大きなものを背負い続けてきた。今季3度目のマウンドは、東日本大震災発生から13 年目となる3月11日の前日だった。「ボクにできることは野球を頑張ること。そこに集中して頑張りたいと思います」とメディアを通じ、メッセージを送った。

 毎年この時期が来ると、佐々木はあの未曾有の大震災についてコメントを求められる。1年目の2020年は「たくさんのものを失ってあらためて気づいたことがたくさんあります。後悔しないように生きていきたいと思いました。今、あることは当たり前じゃないと思った。今という時間を昔より大切にするようになったかなと思います。今、生きている身として亡くなった人たちの分も一生懸命に生きていかないといけないと思いました」、と。プロ2年目は「毎年、忘れる事はない。毎年、ボクにとって特別な日です」と発信した。

大切なものを失ったあの日

 故郷の岩手県に戻った2022年のオフ、佐々木があの日のことを話してくれたことがあった。

「校庭まで津波が押し寄せてきました。みんなで必死に高台まで逃げたのを覚えています。正直、なにが起きたのか分からなかったけど、その事は今でもはっきりと覚えている」

 生まれ育った陸前高田の街はあの日、一変した。大切な自宅、自転車で1周をした街、山の中に作った秘密基地。思い出のすべてが流され、消えた。父と祖父母を失い、日常を失った。老人ホームに作られた避難所で、水もなければ、お風呂にも入れない日々を過ごした。

 小学4年生になると母方の家族のいる岩手県大船渡市へ引っ越しすることになった。震災によって生まれ育った場所から離れなくてはいけないのは辛い事だった。「転校はものすごく辛かったのを覚えています」。そんな心を支えてくれたのが野球だった。その野球が、今この場所へと繋げてくれた。だからこそプロになった今、ひたすら野球に集中し、結果を出すことに邁進する毎日を送る。

新たな伝説へ…

 プロ5年目のシーズンが幕を開ける。3月31日、開幕カード3戦目、本拠地ZOZOマリンスタジアムのファイターズ戦から背番号「17」の新しい伝説がスタートする。

「しっかりと1年間、投げ続ける。試合の中でも昨年の(自分の)平均投球回数よりも1イニングでも長く、球数も多く投げていきたい。ここまでその準備をしてきたつもり」と佐々木は決意を口にした。

 令和の怪物と言われ、メディアに一挙手一投足を追われ、街を歩けば多くの人に気づかれる日々。22歳の青年にとって未だ戸惑いを感じることもある日常だが、背負っているものの重みは誰よりも分かっている。なによりファンの期待を十分に理解している。相性のいい名古屋のマウンドできっかけを掴んだ怪物は、プロ野球ファンの期待をはるかに超えるような進化した姿を見せてくれるはずだ。

文=梶原紀章(千葉ロッテ広報)

photograph by Chiba Lotte Marines