いまから半世紀前、日本列島を熱狂させた世界チャンピオンがいた。“炎の男”輪島功一。「カエル跳び」「あっち向いてホイ」など奇想天外な技で対戦相手とファンの度肝を抜き、ベルトを失ってからは不屈の闘志で2度王座に返り咲くという離れ業を演じた。昭和の時代を一世風靡したボクサー、輪島功一の実像とは。昨年4月に傘寿を迎えた本人を直撃し、あらためて伝説を振り返る。(全2回の1回目/後編へ)

小学生で養子に「勉強しないで、仕事ばっかりしてた」

 1970年代、日本中を熱くさせたあの輪島功一さんも80歳になった。自らが立ち上げた輪島功一スポーツジムの会長を2021年、次男で元プロボクサーの大千さんに譲り、現在は週に一度、土曜日になるとジムに顔を出す。足腰は弱ってきたが、練習生があいさつに顔を出すたびに、「よおっ!」と張り上げる声には迫力があり、その独特な語り口で聞く者を魅了する“輪島節”もいまなお健在だ。

「オレはね、小学6年で親父の兄貴のうちに養子に行くんだよ。親を憎んでないよ。時代だから。養子先は漁師町でさ、よりいいものを食わしてもらえるだろうってことだよ。向こうでは勉強しないで、仕事ばっかりしてたね。小学生だけど大人と一緒に重いものを背負うんだよ。それで足腰は強くなった。でも、重たいものを背負って歩くから、がに股になっちゃった(笑)」

 輪島さんは戦争の真っ只中だった1943年4月21日に樺太で生まれ、戦争が終わると北海道に移住した。旭川市の北寄りに位置する内陸の町、士別市で暮らしていた小学校6年生のとき、北海道の西端にある漁師町、久遠村(現せたな町)にある父親の兄の家の養子となった。当時はまだ戦後、日本中で多くの国民が「食べるのが精一杯」という時代である。

 中学を卒業し、定時制高校に入った輪島さんは故郷の士別にいったん戻り、17歳の春に上京する。東京では自動車修理工場を皮切りに、ガソリンスタンド、建設作業、新聞配達、雑貨屋など、さまざまな仕事を経験した。1960年代、日本はまだ若く、選ばなければ仕事はいくらでもあった。

「オレが東京に出てきたころは、金はいらないからメシだけ食わしてくれという時代よ。それでもいろんな仕事をして、やればやるだけ自分のものになるという請負仕事があったわけ。それで少しずつお金がたまって、自分のやりたいことをやる余裕が生まれたの。そんなときに、こんなことを言った人がいたんだ。『スポーツをやるやつに悪い人間はいない』とね」

“24歳のオールドルーキー”への視線は冷たく…

 都内の土木会社で力仕事をしていた24歳のとき、仕事帰りに人だかりができていたので覗いてみるとボクシングジムがあった。輪の中心にいたのは3年前に開かれた東京オリンピックで金メダルに輝いたボクサー、桜井孝雄だった。ピンとくるものがあった。少し余裕が生まれていた輪島さんはボクシングをやろうと決意した。ただし、その道のりは最初から平坦ではなかった。

「昔はさ、15、6歳でボクシングをはじめて25歳はもう引退なわけ。ジムに入って『よろしくお願いします』と言ったら、『おい、お前いくつなんだ』『はい、あと2カ月で25歳になります』『そうか、じゃあ、あっちのほうに行ってろ』。あの時代の25歳は選手になれる年齢じゃないんだよ。名前を出して悪いけどさ、オレと同い年のファイティング原田は19歳で世界チャンピオンになって、26歳で引退だからね」

 ここが勝負の分かれ道だった。「お前なんてボクサーになれない」と相手にされず、シュンとしてしまったらそれで終わりだ。輪島功一の伝説はここから始まった。

「あっち行っとけ、と言われたオレがどう思うかなんだよ。ああダメだ、と思うのか、今に見てろよ、と思うのか。聞くほうの問題なんだよ。だれも相手にしないのを、相手にせざるを得ないようにしていく。真面目な人間だと思わせる。そういうところ、輪島は頭がいいんだよ(笑)。

 そもそもね、年が年なんだから、人が1年かけていくところを2カ月、3カ月でいかないといけない。人の2倍も3倍も濃い練習をしなくちゃいけない。結局ね、無理ができるかどうかなんだよ。無理が通れば道理が引っ込むという言葉があるでしょ。無理のできない人間は絶対に上にいけないんだよ」

 輪島さんは「心技体」ではなく「心体技」という持論を持つ。まずは心、そして技の前に体がくる。力仕事をしていてもともと体力に自信はあったが、まずは猛練習でスタミナをつけ、厳しいトレーニングにビクともしない体を作った。

 努力と工夫は着実に実を結んだ。デビュー翌年の1969年に全日本ウェルター級新人王に輝き、その年の秋には日本ジュニアミドル級(現スーパーウェルター級)王者に輝いた。見向きもされなかった“遅れてきたルーキー”は、「相手にせざるを得ない」どころかジムの看板選手に成長したのである。

「カエル跳びなんてね、本当はやっちゃダメなんだよ」

 1971年10月31日、ついに世界タイトルマッチのチャンスが訪れる。それまで日本人世界王者は8人誕生していたが、階級はジュニアライト級(現スーパーフェザー級)以下の軽いクラスばかりだ。輪島さんのジュニアミドル級は当時、国内では“重量級”と呼ばれ、小柄な日本人には手の届かないクラスと思われていた。

 WBA・WBCジュニアミドル級王者のカルメロ・ボッシ(イタリア)は1960年ローマ五輪銀メダリストのテクニシャン。「輪島不利」の予想は当然だった。しかし、逆境をはね返すというミッションは、輪島さんの気持ちを奮い立たせる。どうすれば勝てるのか。輪島さんは頭をフル回転させた。

「ボクシングってのは頭を使わないとダメなんだよ。頭突きじゃないぞ(笑)」

 その象徴と言えるのが、のちに輪島さんの代名詞ともなるカエル跳びだ。いきなりお尻が地面につくほど深くしゃがみこみ、カエルが跳びはねるようにしてパンチを打つ。輪島さんはボッシ戦の6ラウンドにこの奇想天外な技を繰り出した。

「カエル跳びなんてね、本当はやっちゃダメなんだよ。ガンとカウンターを打ち下ろされて終わりなんだから。でもね、まさかということをやるわけ。そこに意味がある。駆け引きなんだよ。たとえばちょっといい女がいて口説こうと思ったら、最初はペコペコから始めて相手を油断させるだろ。自分の弱いところを見せておいて、相手が気を抜いたところでバンバン打つ。オレは小さいころから養子に行ってさ、そういうことをしないと生きていけないわけだから。理屈っぽいけど大事なところなんだよ」

 相手を油断させる、あるいは心をかき乱す。気がつけば試合の流れは輪島さんに傾き、ボッシからタイトルを奪った。カエル跳びに加えてもう一つ、“あっち向いてホイ”も紹介したい。その名の通り、この技は試合中に突如あらぬほうを向いて、相手をかく乱させる戦法だ。

「オレが真剣にあっちを向いたら、相手もつられてあっちを向く。その間にパンチを決めるんだ。相手はパンチをもらったことにショックを受けるんじゃない。それよりも『なんだこいつは、汚い手を使ってコノヤロー!』となるんだよ。カッとして頭がパーになるの。そうやって駆け引きしてペースを引き寄せるんだよ」

「30センチのリーチ差」をどう埋めたのか?

 そもそも輪島さんはこの階級では背が低く、特にリーチは致命的とも言えるほど短かった。2度目の防衛戦で拳を交えたマット・ドノバンとはリーチ差が30センチ。そうした身体的ハンディも、人より頭を使い、工夫する原動力となった。

「まともじゃ勝てないわけよ。リーチが短いから相手に近づかないといけない。オレは自分のパンチが当たるところまで行くのに苦労するわけ。当然、相手はオレを近づけまいとする。オレは体と頭を振って避けながら前に出る。すごく怖いんだよ。パンチをもらうかもしれない。だから気持ちなんだ。『コノヤロー、打ってみろ!』っていう気持ちなんだよ。

 だからオレはいつも言うの。練習は根性、試合は勇気だって。勇気は根性より大事なんだ。勇気があって初めて根性で得たものを表に出せる。でもさ、リーチがあっても、パンチがあっても、それを表に出せない人は多いんだよ。気持ちが弱くてドギマギしちゃう。オレはそこを突くわけだ」

 輪島さんはボッシから奪ったタイトルを当時の連続防衛最多タイ記録となる6度防衛した。名声は上がり、大金も手にした。そして7度目の防衛戦に失敗。当時31歳。だれもが引退すると思った。ところがこの敗北が、新たな輪島伝説の始まりとなったのである。

<続く>

文=渋谷淳

photograph by Keiji Ishikawa