高校時代は名門・智弁和歌山高で春夏あわせて5度の甲子園出場。その後も早大→明治安田生命と、プロこそ行かなかったものの野球のエリートコースを歩んできた。そんな道端俊輔が、今年から鹿児島城西高校の野球部監督に就任した。社会人野球で活躍後、営業マンとしても適性を見せつつあった30歳は、なぜその決断を下したのだろうか。<NumberWebインタビュー全2回の第1回/後編に続く>

 戦後、甲子園に5季連続で出場した選手は、荒木大輔(早実・80年〜82年)や、清原和博、桑田真澄(PL学園・83年〜85年)ら甲子園を沸かせたスーパースターを含め、計12人もいるという。

 うち智弁和歌山の選手は1/3の4人。17年夏から出場した黒川史陽(楽天)、東妻純平(DeNA)らが直近にいるが、1年夏から捕手の控えとしてベンチ入りした道端俊輔は2009年夏から2011年夏にわたり聖地の土を踏んだ。

 2年上のエースだった岡田俊哉(中日)とバッテリーを組み、1年上には西川遥輝(ヤクルト)もいた。その秋から正捕手となり、甲子園での最高成績は3年春のベスト8。3年秋にはAAAアジア野球選手権大会の日本代表に選出され、指名打者としてオールスターチーム(ベストナイン)にも選出されている。

2024年1月、鹿児島城西高の監督就任の報が…

 その道端が鹿児島城西の野球部監督に就任するという報道が流れたのは今年の1月だった。道端自身、未踏の地でもあった鹿児島の高校での監督就任に至る以前から抱いてきた“野望”があった。

「いつか智弁和歌山みたいなチームを地方で作って、甲子園を目指したいというのはありました。(智弁和歌山の恩師である)高嶋(仁)先生(監督)が作った智弁和歌山は、地元を大事にして、自分の手で鍛えてきたチーム。そんなチームで甲子園に行って、いずれは高嶋先生を超えたいと思ってきたんです」

 今春のセンバツで大阪桐蔭の西谷浩一監督が甲子園通算69勝を挙げ、甲子園最多勝数が塗り替えられたが、それまでは智弁学園・智弁和歌山の高嶋仁元監督の68勝が最多勝利だった。

 強打を武器に90年代後半から00年代にかけて智弁和歌山を常勝軍団に築き上げた高嶋仁氏の凄さを、教え子視点で道端はこう明かす。

「自分がこんな言い方をするのはおこがましいですけれど……高嶋先生は当たり前のことを積み重ねる天才だと思うんです。難しいことをするのではなく、基本を大事にしてきて、当たり前をとんでもなく積み重ねて結果を出された方。“当たり前”なことだから、考えを指導に置き換えやすいんです。

 そんな指導を間近で見てきて、自分が教わってきた宝物を武器に勝負したいと思って。記録もそうですが、人間としても超えたいというのはあります」

 とは言っても、道端はずっと“高校野球の指導者になる”という夢を温めてきたわけではない。

 高校時代の目標は、プロ野球選手だった。

 高いレベルを求め、智弁和歌山を卒業後は名門・早大の門をくぐった。入学直後、3年上には不動の正捕手・地引雄貴(東京ガスを昨季引退)がいた。地引が卒業後は1年上の土屋遼太(現・JFE東日本コーチ)とのレギュラー争いに勝てず、ようやく正捕手としてマスクを被れるようになったのは土屋が卒業した4年春になってから。小、中、高と下級生から公式戦に出場していた道端にとって、試合に出られない悔しさを味わったのは大学が初めてだった。

 だが、スタメンマスクを被るようになると、4年春のリーグ戦を制し、その後の大学選手権でも優勝。春に続いて秋のリーグ戦も連覇すると、秋の明治神宮大会でも準優勝し、学生野球は有終の美を飾った。だが、自分の実力に限界を感じ、卒業後は明治安田生命(現・明治安田)でプレーすることを決意した。

野球に加え、社会人では営業職に適性も…

 この頃から自分の将来について少しずつ考えるようになったが、同時に社業として従事していた営業職にやりがいを感じていた。

「得意先は40代、50代の顧客が多くて、いわゆる“野球一強の世代”の方々ばかりでした。初めて会う人にはすぐに顔を覚えてもらえて仕事としては有利な立場ではありました。それ以上に営業の仕事が楽しくて……。このまま、本気で役員を目指すくらい働いて、50代くらいから高校野球の指導者になってもいいと思ったんです」

 当時は仕事、野球の練習の傍ら、高校野球に関するデータ収集にも時間を割き、昨今の高校野球界についても知識を習得していた。そんな中、道端は高校野球界のある点に着目していた。

「鳥取県勢が60年間、夏の甲子園で2勝以上していないことを調べていくうちに知ったんです。じゃあ、自分が鳥取県の高校の指導者になって、その歴史を変えたいなと。鳥取県の高校の方に手紙を書いて思いを伝えて、どこかの学校から気に留めてもらえたらと思ったんです」

通信教育で教員免許の取得を目指す

 社会人になって7年目の22年の春。指導者になるために通信で教員免許取得に動き出し、その傍らで鳥取県の複数の高校へ手紙を書いた。だが、ほとんどの学校からは返事がなく、断りの連絡があったりする中「そんな情熱を持った人が、ウチのような学校に来てもらってもいいのか」と戸惑いの返事をくれた学校もあった。

 鳥取で指導者になる、という目標が頓挫する中、夏の地方大会を控えた時期に、鳥取勢が甲子園で長く2勝以上できていないことを検証した、あるweb記事を目にする。さらにその夏の甲子園で準優勝した下関国際の坂原秀尚監督が、監督就任にあたり同校へ手紙をしたためたことがエピソードとして紹介された。

「自分も手紙を書いて監督になる思いを伝えていた時に(坂原監督は)結果を出されているので……。鳥取の事情が世間に広まったことと、坂原監督の成功例を見て同じ考えの人が増えるのではないかって思うようになったんです」

 翌年に30歳となる道端は、「決断の時は今なのでは」と思うようになった。

「高嶋先生を超える、教え子の自分が甲子園で68勝を挙げている先生に恩返しをするとなると、その68勝を超えることだと思ったんです。高嶋先生は30歳の時に甲子園で初勝利を挙げて、そこから43年で68勝している。これはもう、急がないとヤバいと思うようになったんです」

 たまらず道端は動いた。高校野球で勝負をかけたい熱い思いを明治安田生命の岡村憲二監督に明かし、現役引退の意志を思い切って打ち明けたのだ。当時、明治安田生命野球部では主力選手が数人現役を退くことになっており、受け入れてもらえるのか不安はあったが、岡村監督は道端の思いを汲み、受理してくれた。

 ただ、大きな決断をしたとはいえ、引退後の具体的な進路はまだ決まっていなかった。安定した生活より夢を選ぶことで家族を説得するのに時間がかかったのではないか。だが、道端は結婚したばかりの妻の言葉が忘れられないという。

「自分の思いを妻に話したら、“やりたいことがあるのなら、それをやった方がいいんじゃない?”と後押ししてくれたんです。妻はやりたいことがある自分を羨ましいと言ってくれて。妻の言葉がとても大きかったです」

智弁和歌山高の先輩を頼って…大阪へ!

 22年の暮れ、道端は智弁和歌山の先輩の喜多隆志監督のいる興国に向かった。

「急に会いに行ったにも関わらず、喜多さんは自分の話を聞いてくれて。そうしたら、“ウチに来て勉強するか?”という話になって。日中は教員免許取得の勉強をして、夕方からは野球の指導もしていいっていうことになって……。それが決まったのが12月10日でした。翌月の10日からは興国で指導させてもらうことになったんです」

 慌ただしく大阪へ引っ越し、コーチとして道端の指導者人生はスタートした。

 喜多監督は指導の合間を縫って、道端が監督として指導ができる学校がないか関係各所に話をして情報収集してくれていたという。

 そんな中、鹿児島城西高校で監督を探しているという話を聞いたのは、同じく智弁和歌山の先輩でもある明豊の川崎絢平監督からだった。

「川崎さんから話を伺って学校に手紙を送ったら、(学校法人の)日章学園の事務の方から連絡をいただいたんです。その後すぐに話をしたいと言われて鹿児島まで行きました」

 その頃、鹿児島城西の佐々木誠前監督が、任期満了に伴い12月で退任するという報道が出ていた。しかも当時、鹿児島城西高野球部は特異なシチュエーションに置かれていた。

 部内で暴力事件が起こり、混とんとした状況にあったからだった。

<後編につづく>

文=沢井史

photograph by (L)Fumi Sawai、(R)JIJI PRESS