2023ー24年の期間内(対象:2023年12月〜2024年4月)まで、NumberWebで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。箱根駅伝インタビュー部門の第3位は、こちら!(初公開日 2024年1月7日/肩書などはすべて当時)。

 箱根駅伝での6連覇など最多の14度の総合優勝を誇る、名門・中央大学。その伝統校の連続出場が途切れる2016年に入学し、1年生ながら副キャプテンとなったのが田母神一喜だ。入学後は1500mをメインに活躍しながら、4年時には10倍以上の距離がある箱根駅伝出走を目指す異例の挑戦を行った。中大の転換期にその身を捧げた中距離日本王者が振り返る、辛苦の箱根駅伝物語――。(Number Webノンフィクション全3回の第1回/#2、#3へつづく)

 メンバー変更を告げられたのは、2019年の年の瀬だった。

「今回、外れることになりました」

 中央大陸上部長距離ブロックの主将として挑んだ最後の箱根駅伝。区間エントリー10名の中に田母神一喜の名前はなかった。エントリー16名の中に名を連ねていたものの、よほどのアクシデントがない限り出場はできない。

 藤原正和監督にそう告げられた時のことを、田母神は今でもよく覚えていた。

「ただ、本番までにはどんなアクシデントが起きるかもわからないし、準備だけはしておいてくれと。けっこうショックでしたね、あれは。寮の部屋に戻って、しばらく放心状態でした」

 目を閉じれば、1年生からの思い出が次々に浮かんできた。箱根の連続出場が87回で途切れたあの屈辱から、自分たちはどう立ち上がって、ここまで来たのか。悔しさがこみ上げる一方で、ふとこの状況がおかしくも思えた。

 まさか自分がこれほど箱根駅伝に心を持っていかれるとは思ってもいなかったからだ。

僕たち1年生は何も知らないから…

 そもそも田母神が中大に進学したのは、駅伝でもなければ長距離でもなく、中距離を究めようとしたからだ。高校の恩師に勧められ、大学では1500mをメインに練習する予定だった。

 福島の名門・学法石川高時代から、そのスピードは卓越していた。インターハイでは1500mで優勝。世界ユース選手権にも出場し、7位入賞を果たしている。同級生の相澤晃(元東洋大)や阿部弘輝(元明大)らは長距離の才能に秀でており、なおさら自分は中距離で世界と勝負すると心に決めていた。

 しかし、中大に入学してすぐ、田母神は予期せぬ嵐に巻き込まれていく。入寮した2日後に、監督が交代したのだ。

「入部した次の日に集まりがあって、明日から監督が代わりますって。4年生やコーチ陣も知らなかったみたいで、わりと混乱してました。でも、僕たち1年生は何も知らないから、チームがどう変わるんだろうってワクワクしたところもあったんです」

監督に「もうついていけません」

 当時の中大はチームの再建が待ったなしの状況だった。箱根駅伝は4年連続でシード落ち。かつては箱根で6連覇、優勝回数も最多の14度を誇る名門だけに、低迷が続く状況を看過するわけにはいかなかった。

 その一手として、OBでもある藤原監督が新たに就任する。だが、2カ月後の全日本大学駅伝の選考会でまさかの落選。チームは出だしで大きくつまずいてしまう。

 直後に選手ミーティングが開かれたが、ぬるい空気のまま終わった。それが混乱に拍車をかけた、と田母神が苦い表情で振り返る。

「中大って良くも悪くも伝統を重んじる大学で、僕らが入った頃はわりと理不尽なルールが残っていたんです。それで結果が出ているならわかるんですけど、僕たちはあまり意味がないと思っていて。それで全日本に出場できなかったときに、監督がチームが変われるような改善点を出すように4年生に言ったんですね。そうしたら、4年生はキャプテンを替えて、これでやっていきますって。期待した改善策は何も語っていただけなかった。舟津(彰馬)と僕はそれにけっこう怒っちゃって、『もうついていけません』って話を監督にしたんです」

あの時は僕と舟津がけっこうイケイケだった

 ある意味、ルーキーの田母神らと新監督の見方は、悪しき伝統に染まっていないという点で一致していたのだろう。規律のゆるさ、覚悟のなさを感じ取った監督は、荒療治でチームを立て直そうとした。翌7月に、監督は1年生の舟津を新たな駅伝主将に指名する。田母神も副将を任された。入部してまだ間もないルーキーに主将と副将を任せるなど、前代未聞のできごとだった。

「いま思えば、僕たちが調子に乗っていたんですけど、あの時は僕と舟津がけっこうイケイケで、それでああなってしまって。舟津は駅伝でも力があったし、頑張ってチームをまとめようとしていましたけど、やっぱり経験の差はありました」

報告会での「伝説のスピーチ」

 10月の箱根駅伝予選会、そこで悲劇は起きた。

 本戦出場が決まる10位までに校名が呼ばれず、中央大はよもやの11位。大正14年から続いてきた連続出場が87回で途切れてしまったのだ。直後の報告会、多くの関係者が見守るなか、矢面に立ったのが監督であり、1年生のキャプテンだった。

 舟津はこう言って、チームを守ろうとした。

「自分たちはやれると思ってやってきました。それに対して、誰も文句は言えません。もし先輩方に何か言う人がいたら、自分が受けて立ちます。自分にすべてぶつけて下さい」

寮の留守電に「1年にやらせるからこうなるんだ」

 立派な態度だったと思うが、それでも非難する人はたくさんいたという。

「それこそ僕たちへの誹謗中傷はかなりありました。SNSだったり、寮の留守番電話にもメッセージが入っていたりして。『お前らは中大の恥だ』とか、『1年生にキャプテンをやらせるからこうなるんだ』とか。あのスピーチをよく思わなかった方もいて、舟津はけっこうダメージを受けてましたね」

 田母神はその時の予選会を走っていないが、会場に行って、中大の伝統をまざまざと感じたという。幟旗の数が他大学と比べても圧倒的に多く、注目度も桁違いだった。予選落ちして初めて、「自分たちはとんでもないことをしてしまったんだ」と感じ入った。

 巻き込まれた嵐は、過ぎ去っていくのを静かに待っている他はなかった。

中距離に注力する一方、駅伝チームは箱根駅伝11位

 2年生になると、田母神を取り巻く環境にも変化が現れる。副将のポジションは上級生に譲り、希望通り、中距離の練習に特化していく。10月には一人寮を出て、スポーツメーカーのナイキが立ち上げたプロチームで活動することになった。陸上部の長距離ブロックに籍を置きながら、外部コーチである横田真人(800mの元日本記録保持者)に師事する。これもまた異例の取り組みだった。

「僕もナイキのスポンサードを受けていたので、特別に練習生として受け入れてもらったんです。藤原監督にも良いよと言ってもらえて、活動費とかもチームの部費から出してもらえた。本当に恵まれた環境でやらせてもらって、監督や大学には感謝の思いしかないですね」

 振り返れば、あの予選会がチームとしての底だった。中大は翌年に本戦返り咲き。さらに次の年には箱根駅伝で11位と、シード権まであと一歩のところまで迫った。

監督からの呼び出し「チームに戻ってきてくれないか」

 田母神も個人で奮闘し、3年時の日本選手権1500mでは有力な社会人選手を抑えて3位に入っている。アジア選手権の日本代表にも選ばれ、東京オリンピック出場も視野に入るかという活躍ぶりだった。

 この時、彼は大きな岐路に立つ。藤原監督やコーチに呼び出され、こう切り出されたのだ。「チームに戻ってきてくれないか」と。

 <つづく>

文=小堀隆司

photograph by Nanae Suzuki