3月に行われた競泳パリ五輪代表選考会の200m個人メドレーで2位に入り、自身初となる大舞台の切符を獲得した早稲田大学4年の松本信歩(しほ)選手(東京ドームスポーツ)。父母はともに東大卒で、弟も東大水泳部の3年生。自身も全国屈指の進学校から早大へと進学し、現在はスポーツビジネスを専攻する。かように「文武両道」を地で行く活躍を見せている松本選手だが、その原点はどこにあったのだろうか。<前後編の前編/後編を読む>

 3月に行われた競泳のパリ五輪代表選考会、女子200m個人メドレー。

 1泳法目のバタフライで、早大4年生の松本信歩(東京ドームスポーツ)は頭ひとつ分ほどのリードを得た。

 ただ、そこからライバルたちの猛追がはじまる。続く背泳ぎで東京五輪個人メドレー2冠の大橋悠依(イトマン東進)に逆転される。3泳法目の平泳ぎに入ると、伸び盛りの17歳・成田実生(金町SC)にも肩を並べられた。戦前の予想通り、2つの代表枠を争って3つ巴の大熱戦。

 それでも松本の見せ場はそこからだった。最後の自由形の50m。「意識して強化してきた」ラスト15mでギリギリまで粘り切り、2分9秒90の記録で大橋に次ぐ2位。パリ五輪の切符を手にした。

「しっかり代表権を取れたことは良かった」

 当人は大一番のレースをこう振り返る。

「五輪選考会ということで、ものすごく緊張していて。今思えば、もうちょっと落ち着いてレースができたらもっとタイムが出たかなとも思うんですけど……でも、まずは代表権を取るということを目標にしていたので。最後、15mとかで競り負けることが多かったので、そこでしっかり代表権を取れたことは良かったと思います」

 自身初となる五輪出場には「まだあまり実感はない」と笑う。

 中高時代から世代のトップスイマーではあったが、大学入学後にもう一段階、急成長。一躍ハイレベルな日本の五輪代表争いに名を連ねていた。

 一方で、そんな松本には他の代表選手たちとは少し異なるバックボーンも存在する。

超ハイレベルな「文武両道」

 父母はともに東大卒。弟も現在、東大水泳部に所属する3年生で、今回の代表選考会にも出場した学生トップスイマーのひとりだ。自身も全国屈指の進学校である東京学芸大附属高から早大スポーツ科学部に進学し、スポーツビジネスを専攻。成績優秀者しかもらえない奨学金も大学側から受けていたという。

 毎年、資格試験にも挑戦し、大学1年時には簿記2級、2年時にはスペイン語検定5級と宅建の資格を取得した。3年時に受験した行政書士試験はわずかに得点が足りなかったが、五輪後に再挑戦しようと考えているそうだ。

 かように超ハイレベルで「文武両道」を地で行く活躍を見せている松本。では、その経歴を紐解いてみると、原点にはどんな教育方針があったのだろうか? 

 松本が水泳をはじめたのは、5歳の時だ。

「自分ではもう覚えていないんですけど、幼稚園の友達がスイミングクラブに通っていて『一緒に行きたい!』と言ったようです。はじめていったレッスンで先生に『けのびをしてごらん』と言われたのに、なぜかバタ足していた記憶が最初ですね(笑)」

 それでも生まれ持ったセンスですぐに頭角を現し、昇級スピードは速かったという。そして、小学校2年生の時に出場した全国レベルの大会で優秀選手に選ばれたことで、一気に競技にのめり込んだ。

「やっぱり大会で活躍できたことが嬉しくて、『ちゃんと練習をやって勝ちたいな』と思った記憶があります。ただ、まだ当時は親も自分もオリンピック云々とかではなくて、本当に単なる習い事のひとつ……みたいに捉えていたと思います」

 小学校の高学年になるころには、授業が終わればほぼ毎日スイミングクラブに通う生活になっていたという。

 ただ、その頃になると、中学受験を視野に並行して学業の比重も大きくなってきていた。

 メディア等では「東大卒の親は、子どもに『勉強しなさい』と頭ごなしに言わない」というような言説を目にすることも多い。だが「勉強に関しては全然、自発的ではなくて。普通にやらされ感がありました」と本人は苦笑する。

「ただ、勉強と水泳で『めちゃくちゃ忙しい!』みたいな感じはなかったですね。塾もほとんど行ったことなかったですし。親からは『ちゃんと学校の課題だけはやろう』ということをずっと言われていました。それもあって勉強するのは当たり前というか、義務みたいに思っていました。『水泳はいつ伸びなくなるかわからないから、勉強して損はないよ』という感じで言われていたと思います」

 毎日、学校を終えればスイミングに行き、それを終えて夜、家に帰れば黙々と学校の課題をこなす。文字で記せば何の変哲もない日常ではあるが、それを日々着実に繰り返すことの難しさは多くの人の想像に難くないだろう。

水泳は「やりたいこと」、勉強は「義務」

 ただ、決して積極的ではなかったという学業面に関しては、水泳に打ち込んでいたことがプラスに働いたことが大きかったという。

「水泳は楽しかったし、自分にとっての『やりたいこと』だったんですよね。その『やりたいこと』をやらせてもらって、両親には送り迎えとかもしてもらっている。じゃあ、普段から言われている自分の“義務”である勉強もちゃんとやらないとダメだな。そんな風に思っていた気がします」

 裏を返せば、松本がそう考えるようになれたこと自体が両親の指導の賜物だったといえるのかもしれない。

「勉強も分からないところは両親に聞けば教えてくれましたし、そういう意味ではやりやすい環境だったのかもしれません」

 ただ、多感な10代の頃でもある。友人と遊びに行ったり、趣味の時間が欲しい……というようなことは無かったのだろうか。

「3歳から中学1年生まではピアノも習っていて、煮詰まって来るとそれを弾くのがリラックス法というか、趣味みたいな感じで。それで十分でした。特にアウトドアな趣味とかもないし、机に向かうこと自体は昔からストレスではなかったんですよね」

 水泳の面では順調に記録を伸ばすと、中学3年時には200m個人メドレーで全中優勝。

 高校でも1年生ながらインターハイ決勝に進出(※3年時はコロナ禍で開催中止)、高校ランキングではトップの記録をマークするなど名実ともに世代を代表する選手に成長していった。

「小中学校の頃は『オリンピックに行きたい』と口にはしていましたけど、全然現実的な目標ではなくて。両親も現実になると思っていなかったはずです。ただ、高校で東京五輪に出るような選手たちとランキング上でも距離が縮まってきて、少しずつ夢から目標に変わって来ていました」

大学進学…競泳か学業かで悩むことは?

 一方で、松本が進学した国立の東京学芸大附属高校は、当時は東大合格者を毎年50人近く輩出する、全国的に見ても超のつく進学校だった。学業か、競技か――間近で両親のキャリアを見てきたこともあり、進路に悩むことは無かったのだろうか。

「高校卒業後の進路に関しては、親はもう『自分のやりたいようにしたら?』という感じで、完全にお任せでした。自分自身もあまり悩むことはなかったですね。まずは競泳に全力で取り組める環境に行こうと決めていました。

 学業に関しては引退してからでも大学に入り直したり、学ぶことができる。でも、競技はフィジカルの問題があるので、高いレベルを目指すなら若い年齢でしかできません。オリンピックという大舞台に手が届く可能性があるなら、4年間はそこに打ち込んでみようと思ったのが大きかったですね」

 そうして進路として選んだのが、早稲田大学だった。

<後編へつづく>

文=山崎ダイ

photograph by AFLO