「怪物と最も拳を交えた男」の目に、東京ドームのリングに立つ“怪物”はどう映ったのか。5月6日、井上尚弥がルイス・ネリから6回TKO勝利を収めた。井上のプロテストの相手役など長らくスパーリングで拳を交えてきたのが、元日本2階級制覇王者の黒田雅之だ。ネリに奪われたまさかのダウン、その後に井上が仕掛けた“ワナ”など、試合前半のキーポイントを解説してもらった。《NumberWebインタビュー全2回/後編に続く》

――試合を見た率直な感想は。

「やっぱり1ラウンドはびっくりしました。まずはそこですよね。尚弥選手がダウンした後は、概ね予想通りの展開です。ただ、相手が前に出てきたところを、(攻撃やガードの)合間を縫ってカウンターを打つ。そのパンチの精度があまりにも正確でぞっとしました」

――ことごとくパンチが入っていました。

「攻撃的で前に出てくる選手を相手にすると、ここまで綺麗にパンチが入るのか、と。もちろん、ネリ選手の仕上がりの良さ、気持ちの強さ、倒す姿勢も見られたし、リング外のことは置いといて、すごく見応えのある面白い試合でした」

――黒田さんは、東京ドームで観戦したんですよね。

「あのドームの雰囲気って異様というか、今まで僕が見てきたボクシングとは全く違うものでした。その雰囲気にのまれる選手ではありませんが、あそこまで気合が入っている尚弥選手を見たのは初めて。後出しになりますが、ちょっと怖い、いつもと違うなとは感じていました。普段なら1ラウンドは大人しいし、様子を見る。でも、ガーッと行った。バンタム級初戦(ジェイミー・マクドネル戦)を思い出しましたね」

「正直想像できなかった」1ラウンド、井上尚弥のダウン

井上のパンチがいつもより大きい。明らかに力んでいる。開始1分40秒。接近戦で井上が左アッパーから右フックを放とうとした瞬間、ネリが顔面への左フック。被弾した井上が転がるようにダウンを喫した。

――まさかダウンするとは……。

「正直、想像できなかったです。あの場面で左フックを打てるのはネリ選手独特なのかなと思いました。ただ、尚弥選手のその後のリアクションを見たら、ものすごく落ち着いている。あらゆることをイメージするとは聞いていましたが、相当しているんでしょう。一ファンとしてはハラハラしましたが……」

――ダウンした後、なかなか冷静でいられないのでは。

「僕が初めてダウンをしたときは、来る時が来た、じゃないですけど、割と落ち着いていました。驚いたのは、ダウンの瞬間って自分が倒れたと思っていなくて、地面が(自分の方に向かって)上がってくる感覚なんです」

――えっ、どういうことですか。

「人にもよると思いますが、僕は自分が倒れたと脳が認識していなくて、(地面から)壁が上がってくるような感じがしました。いつもと違う景色で、レフェリーがカウントしているのを見て、『あっ、ダウンしたんだ』と理解できました」

――井上選手のダウン後の対応はどう見ましたか。

黒田が感じていた“井上のワナ”

「回復力が早いし、打たれ強いんでしょうね。ダウンの後、ロープに詰められて、ラッシュされていた。でも、パンチをもらっていない。まだ脳が揺れている段階だと思うんですけど、あそこまで機敏に動ける。それは日々、首や下半身の地味なトレーニングを相当やっているからでしょうね。自分の場合はダウンの後、足に力が入りづらいことがあった。彼の動きからはそれを感じなかったし、しっかり足に力が入っているように見えました」

――確かに、パンチを一切もらっていなかったですね。

「あの場面に限らず、ロープを背負ったのは意識的だったと思います。ここ数戦はスティーブン・フルトン選手、マーロン・タパレス選手とディフェンシブだったので、自分が前に出なきゃいけない。でも今回は逆。尚弥選手としてはその方がやりやすい。ロープを背負うことで、相手がパンチを打ってくる。するとガードが空くし、隙が生まれる。尚弥選手の場合、自分で出ていく必要がなくなり、手間が省ける。実際、ディフェンスワークでパンチをかわし、カウンターや右のボディアッパーを打っていましたよね」

――スパーリングでも、井上選手は意識的にそういう場面をつくるんですか。

「はい、わざとロープを背負っているな、と感じていました。だから、こっちが詰めているのに、気持ちよくない。絶対に何かワナがある。でも、いくしかない。それで右を打ったところに、左フックのカウンターをもらうんです」

――得意の、遅れて出てくる左フックですね。

「ロープに詰めた側としては、やることは絞られて、攻めるしかない。僕以外の選手とのスパーを見ていても、わざとロープを背負う場面をつくることが多かったと思います。そこでの細かいボディワーク、スウェーバック、頭の位置の動かし方が本当に的確でした」

「1ラウンドに倒された選手が、次のラウンドに倒すって…」

インターバルで、井上は座りながらビジョンを見つめ、ネリからもらった左フックの軌道を確認した。2ラウンドが始まり、2分過ぎ、今度は左フックでダウンを奪い返した。

――2ラウンドが始まったときは、どう見ましたか。

「まだちょっとネリ選手との距離をつかめていないかなと思いました。ただ、ダウンを奪い返す直前、ネリ選手の大きいパンチをバックステップでかわしたので、もう距離感をつかめていたんでしょうね」

――ダウンを奪ったのはコンパクトな左フックでした。

「すごく得意なパンチだと理解しているし、相手はフォロースルーが大きいので、あれでダウンを奪うことは想定していました。だけど、1ラウンドに倒された選手が、次のラウンドに倒すって……。技術うんぬんよりそこですよね。しかも下がりながらのコンパクトなパンチ。相当回復力が早くないと拳に力が乗らないし、倒せない。2ラウンドの途中ぐらいからワンサイドになっていましたから」

黒田さんが印象的だと語るのが、3ラウンド残り30秒の場面。井上がワンツーを放ち、右ストレートがネリの顔面を捉えた。ここから井上の攻撃が変わったという。《後編に続く》

文=森合正範

photograph by Hiroaki Yamaguchi