2024年3月、ひとりの学生レスラーがリングを去った。名前は無村架純。慶應大学を飛び級で卒業し、現在は法科大学院で弁護士を志す彼女の“最後の試合”はどのような結末を迎えたのか? 学生プロレス界で異例の輝きを放った無村に、ロングインタビューで迫った。《NumberWeb特別引退ドキュメント第2回/前編から続く》

 2024年3月、学生プロレス界で随一の人気を誇る女子学生レスラー、無村架純の引退試合が行われた。

 慶應プロレス研究会(KWA)によるこの日の自主興行では、3人の4年生が引退した。無村、朝倉母乳(みるく)、マラ橋弘至の3人だ。

 選手数2名という暗黒期を経て、どうにか生き延びてきたKWAの歴史において、この3人はプラチナ世代と呼ばれる。

 朝倉とマラ橋が闘う引退試合は、ダブルメインイベントの2試合目。そしてダブルメインイベントの1試合目に、無村の引退試合が組まれた。

 対戦相手は立命館プロレス同好会(RWF)の3年生(2024年3月当時)、女子選手のパチ子。自分に出せるものを、ちゃんと出して終わりたい。最後の試合を前に、無村には期するものがあった。

「正直に言うと、学生プロレスで試合をするときは対戦相手のほとんどが男子選手で、そうすると自分が輝けないという印象があったんです。それが少しつらかったんですね」

「女子同士でもいい試合はできる」

 KWAにはこれまで、何人かの女子選手が在籍してきた。不思議なことに、約5年に1度の周期で、男子選手しかいない団体の門を“変わり者”の女子選手が叩いてきた。

 15年近く前に所属した女子選手は、アマチュアレスリングでの経験を生かし、現在プロのレスラーとして活動している。10年近く前に所属した女子選手は、父親がリングのキャンバスを製造する仕事に就いていた関係で、KWAにリングを寄贈した。

 そして4年前、無村が入部した。

 けれども彼女に続き、さらに女子選手が増えるという変化は起きなかった。となると、彼女は体格差のある男子選手と劣勢な試合をするしかない。

「だからいつも第1試合とか、第2試合とか。女子がセミやメインを任されることはほとんどないんです。他団体でも同じような状況だと思います。でも女子選手にだっていい試合はできるし、女子同士でもいい試合はできる。最後にそういうものを見せたかったんですね」

 引退試合を行うことは以前からわかっていたので、ずっと対戦相手を検討していた。悩んだ挙句、レベルの高い関西で練習を続けてきた、1学年下の実力者パチ子を指名した。

飛び級で慶應大を卒業→法科大学院へ

 最後にいい試合をしたい。彼女がそう考えるに至った理由は、また別のところにもある。

「やっぱり勉強に時間を取られて、満足できる試合がずっとできなかったので」

 これは彼女について語るときに、まず語るべきことなのかもしれない。

 彼女が大学を飛び級で卒業したこと、授業料全額免除の特待資格で大学院法務研究科へ進んだこと、そして2024年7月に行われる司法試験を受け、弁護士になると誓っていること。

 彼女は実際には大学4年ではなく、法科大学院2年に在籍する、成績優秀な司法試験受験生なのだ。

きっかけは大学1年で経験した“刑事事件”

 彼女が弁護士を目指した大きなきっかけは、大学1年生のときに経験したある刑事事件だった。

 そのころ交際していた自称“京大卒”の医師が、実は医師免許もなく、ビザもない不法滞在中の外国人で、そのうえ彼女の父親名義のクレジットカードを不正利用して逮捕されてしまった。そして彼女は彼と同棲していた部屋を、家賃滞納による強制執行で追い出されてしまう。

 ほとんど嘘みたいなその事件に巻き込まれたとき、親身になってくれたのが、彼の国選弁護人を務めた弁護士だった。

「電話で話していて、君の思考は論理的だと言われたんです。君ならなれる、司法試験なんて日本語が書ければだれでも受かるんだからって。それで司法試験を受けてみようと思ったんです。本当にその一言で」

 高校時代は国際交流活動にも携わっていたため、将来はインターナショナルな仕事に就き、日本をよくしていきたいと思っていた。と同時に、法律を学ぶことにも興味があった。

 慶應義塾大学法学部に進学後、成績がよかったため、自分は法曹の仕事に向いているのかもしれない、そう思った。企業法務という分野を知り、それらを通じて日本をよくしていけるかもしれないと考えたことも大きかった。

 それでも「君ならなれる」の一言がなければ、きっと弁護士を目指そうとは思わなかった。

LINEのステータスメッセージは「誘わないでください」

 将来の仕事を視野に入れてからは、一心不乱に勉強と向き合った。

 たとえば現在の1日のスケジュールは、午前10時から午後11時まで自習室で勉強。

「たぶん弁護士になったら、深夜2時ごろまで働く生活になると思うので、それに比べればマシです。習慣だから、つらくないんですよね」

 遊ぶ時間は基本的にない。LINEのステータスメッセージは「誘わないでください」。彼女の日々は、「自習室にいるか、プロレスのお仕事をしているか、時間があればプロの指導を受けているか」で明け暮れる。「あとは寝ているか(笑)」

 プロのレスラーと交流を持ったことで、レベルの高いプロレスの指導を受けられたし、練習にもせいいっぱい取り組んできた。できるかぎりのことはやってきたつもりだが、100点と言える試合はまったくできなかった。

 だから引退試合は、積み重ねてきたものを見せられる、絶好の機会だと意気込んでいた。

 ところが2023年11月に行われた三田祭での試合で、受け身を取りそこねた結果、左腕を骨折してしまう。

 引退まで、残された時間はわずかだった。

顔面蹴りにエルボーの応酬…引退試合は激闘に

 骨折した左腕はなんとか完治し、いよいよ迎えた引退試合。

 パチ子との闘いはまれに見る好勝負となった。

「女子同士なので、ハイスピード系やルチャっぽい動きのほうが女子らしさは出たと思うんです。でも……」

 この日の彼女が思い描いていたのは、たとえば彼女の好きな全日本プロレスのような、昭和感の残るバチバチしたプロレスだった。

 序盤はグラウンドの攻防から。場外戦を挟み、互いに固め技で相手を絞りあげていく。そしてコーナーでの蹴り、エルボーの応酬、ブレーンバスターの打ち合い。

 パチ子の技は的確で激しい。スリング・ブレイドや、コーナーポストでの倒立〜拝み渡りに至るムーブまで、見せ場をはずさない。学生プロレス界に誕生した、新しい女子レスラーのスターだ。

 かたや無村も、雪崩式ブレーンバスターをくり出し、頭突きでかち上げ、得意のシスター・アビゲイルで攻め込む。

“最後の試合”で無村が出したかったもの

 時間は20分を越えた。

 学生プロレスの引退試合は、引退する選手の「まだ終わりたくない」という思いと、相手選手の「まだ終わらせたくない」という思いが強く交錯する。だから死力を尽くした激闘が生まれる。

「いつもなら聞こえる実況やお客さんの声が聞こえなくなって。視野もいつもより狭まるくらい無我夢中でした。余裕は全然なかったです」

 普段の彼女には、無村架純と、彼女をプロデュースする“中の人”を、一人二役で演じている感覚があった。

 けれどもその瞬間、境目はなくなって、本当の自分がリングに現れた。

 それこそが最後の試合で彼女の出したかったものなのかもしれない。

 力尽きた彼女を、パチ子の強烈な技が襲う。フィニッシュは全女式ボディスラムから後方に叩きつけるキューティー・スペシャル。

 23分6秒、パチ子が勝利を収めた。

“学生プロレス史上最高の闘い”を終えて

 女子選手同士の試合としては、学生プロレス史上最高の闘い。そう言っても、決して言い過ぎではない死闘だった。

「採点すると80点です」

 そう謙遜するものの、自身の最高の勝負を置き土産に、無村架純は学生プロレスのリングを去った。

 KWAから一気に3人が卒業し、選手数がまた低迷期に近いところまで減ってしまったのは心残りだ。だから今年7月の司法試験を経たあとは、大学院に在籍する2025年3月までOGとしてリングに上がりたいと思っている。

 でもそれ以降は、二度と学生プロレスにかかわることはないだろう。

「学生プロレスはやっぱり学生が主役だと思うんです。頼られれば協力するかもしれませんけど、表舞台に出ることはたぶんない。でもプロレス全般なら、弁護士として携われることがあればやっていきたいです」

 そのときには必ず、学生プロレスを通じて経験してきたことが生かせるはず、と彼女は考えている。

「たくさんの人とかかわってきたので、コミュニケーション能力をはじめ、ソフトスキルは磨かれているはずです。サービス業という点では、弁護士もレスラーも一緒。需要に応じてサービスを提供する仕事なので、絶対にその視点が……なんか就活みたいですけど(笑)」

 そのときの彼女の表情は、もはや無村架純ではなく、“中の人”そのものだった。

《引退ドキュメント第1回も公開中です》

(撮影=杉山拓也)

文=門間雄介

photograph by Takuya Sugiyama