2009年、8歳のときに大河ドラマ『天地人』(NHK)で主人公・直江兼続の幼少期を演じて注目を集め、トヨタ自動車のCMで「こども店長」として国民的人気子役となった加藤清史郎さん。

同年、演歌『かつおぶしだよ人生は』で歌手デビュー。2011年には、映画『忍たま乱太郎』(三池崇史監督)に主演。近年では、日曜劇場『ドラゴン桜』(TBS系)、『最高の教師 1年後、私は生徒に■された』(日本テレビ系)などに出演。

2024年5月28日(火)から東京芸術劇場プレイハウスで主演舞台『未来少年コナン』の上演が始まる加藤清史郎さんにインタビュー。

 

◆映画『忍たま乱太郎』で“夢”が実現

神奈川県で生まれ育った加藤さんは、物心がつく前に芸能活動をスタート。芸能界デビューは1歳1カ月のときだったという。

「物心がついたときにはもう生活の一部でした。なので、意識という意識はそんなにはしてなかったのかもしれないですね。もちろんお仕事だという認識はしていたし、意識を持たないといけないということはわかってはいたのですが、楽しいことをやっているという意味では、趣味の延長線上にあるような感覚もありました」

――注目を集めることになったのは『天地人』からでしょうか。

「そうですね。『天地人』ですごく話題にしていただけて。それきっかけでトヨタさんの『こども店長』のCMをやらせていただきました。そこからもオーディションを受けてという生活をずっとやっていました」

――2009年は、『かつおぶしだよ人生は』で歌手デビューもされて。

「はい。歌手デビューもさせていただいて、その次の年だったかな。『紅白歌合戦』(NHK)にも出させていただきました。紅白もそうですけど、当時は最年少みたいな形でいろんな番組にも出させていただいたのですが、大体そのあと(芦田)愛菜ちゃんが最年少記録を塗り替えるんです(笑)」

――小さい頃から皆さんにお顔が知られていて、「こども店長」とか「清史郎くん」って声をかけられていたと思いますが、ご自身ではいかがでした?

「僕のことを知ってくださっている方がひとりでも増えたというのは本当にうれしかったです。人によってはバレるのはイヤだという方もいらっしゃいますが、そこは昔から今に至っても変わらずに、うれしいんですよね。声をかけていただけることって。

声のかけられ方によって、その地域に来たなみたいな、地域ごとの特徴もあったりして。人の温かさだったり、情熱だったりというのも違ったりするじゃないですか。やっぱりそれもうれしいので、東京の人はもっと声をかけてくれればいいのになって思っています。

関西とかに行くと、名前を間違っているのに立ち止まるまで叫び続けられて、『僕のことですか?』みたいなこともありますし(笑)。でも、それくらいのほうがうれしいかもしれないですね」

――小さいときになりたかったのは何ですか?

「幼稚園生の頃は、警察官かバスケットボール選手か忍者です。警察官はいろんな刑事ものを見ていて、それこそ『相棒』(テレビ朝日系)とかを小さい頃から祖母と一緒に見ていたので。

バスケットボール選手というのは、5歳だったかな。岸谷五朗さんと高島礼子さんとやらせていただいた『ファイブ』(NHK)という作品がバスケットボールを扱っていたのでカッコ良いなって思って。忍者も多分そのひとつだったと思います」

――2011年に主演映画『忍たま乱太郎』で忍者役に。

「そうなんです。忍者役をやらせていただけたし、警察もインターポールの役を2、3年前にやらせていただきました。バスケットボールではないけど、ハンドボールの選手もやらせていただけて…という感じで自分がなりたいと思っているものになれる可能性のある仕事ではあるなって思いますね」

――『忍たま乱太郎』の映画のお話が来たときは?

「まさかという感じではありました。忍者になりたいなとは思っていたけど、具体的に、じゃあこの作品をやりたいみたいなものって、僕はあまりなかったんですよ。でも、テレビ版を散々見てきていたので、すごくうれしいという気持ちでいっぱいでした」

――撮影はいかがでした?

「ものすごく楽しかったです。『忍たま乱太郎』は2本やらせていただいて、真夏の京都で両方とも撮影したんですけど、1本目のときは丸々1カ月間、夏休みを使って撮影に挑ませていただいて、ものすごく貴重な経験をさせていただいたなあって。

周りの方々も本当に大大大ベテランの方々ばかりで、今あらためて家の倉庫にある『忍たま乱太郎』のパンフレットとかポスターなど資料を見ると、すごい方たちばかりだったなあって思います。

そんななかで、主演ということの何をどこまで理解していたか、今も理解できているとは思えないし、わからないんですけど、ようやっていたなみたいなのはありますね(笑)。楽しくなきゃ絶対絶対やれないよなって」

※加藤清史郎プロフィル
2001年8月4日生まれ。神奈川県出身。2009年、大河ドラマ『天地人』(NHK)で主人公の幼少時代を演じ注目され、同年「こども店長」として大ブレイク。2011年、映画『忍たま乱太郎』で主役・猪名寺乱太郎を演じ、同年『レ・ミゼラブル』のガブローシュ役で初舞台を踏む。海外留学後、2021年には、日曜劇場『ドラゴン桜』に出演。その後もさまざまな話題作に出演し、幅広く活躍している。近年の主な出演作にミュージカル・ピカレスク『LUPIN 〜カリオストロ伯爵夫人の秘密〜』(小池修一郎演出)、映画『ゆとりですがなにか インターナショナル』(水田伸生監督)、TVドラマ『最高の教師 1年後、私は生徒に■された』などがあり、2024年5月28日(火)から主演舞台『未来少年コナン』(東京芸術劇場プレイハウス)が上演される。

 

◆『レ・ミゼラブル』でミュージカルに魅了

2011年、加藤さんは、ミュージカル『レ・ミゼラブル』に、革命を起こす学生たちと行動をともにする浮浪児・ガブローシュ役で出演。加藤さんにとって初舞台となった。

「『忍たま乱太郎』の1本目と2本目の間に初めてミュージカルに出演させていただいたのですが、2本目の撮影のときにミュージカルのお仕事と並行してやっていたので、地方公演の際の2週間、名古屋と大阪、博多公演の間で、京都で撮影しました。

ものすごくスケジュール的にはきつかったんですけど、ただ楽しくてやりたくてやっていたので、そこで得られたものはやっぱり大きいんじゃないかなって思います。

『レ・ミゼラブル』は、もともとは事務所の先輩がガブローシュという役をやっていて、見に行かせていただいたのが初めてのミュージカルでした。そこで大人に負けじと走り回って歌っている彼がカッコ良くて、僕もやれるようになりたいと思ったのがきっかけです。

そこで出会ったことによって、そこからどんどん愛が増していって、ミュージカルという世界の良さも知っていって、最終的には、高校時代イギリスに留学した大きなきっかけのひとつでもあります」

――外国のスタッフとお仕事をされたのは初めてでした?

「声優のお仕事もいろいろさせていただいていたので、どこかでご一緒したりとかはあったと思いますが、『レ・ミゼラブル』の最初は旧演出だったので、ほとんど海外の方とは関わらずにやらせていただいたんです。

その後、2013年に『レ・ミゼラブル』に出たときが新演出だったので、UKチームが来日して稽古をつけるという日々が始まって。あんなに長い間、濃い時間を海外の方と仕事という意味で過ごしたのは、確実にあれが初めてだったので、僕にとってはものすごく大きな経験でした。

専門的な話も出るので、通訳さんを介さないと理解はできなかったですけど、すごく楽しかった記憶はあります。ものすごく柔軟だったし。演出家の方々が、新演出をどういう風にやっていくかというのをすごく試行錯誤しながら稽古場で作っていたんです。

僕がやったガブローシュという役は、最終的に革命のなかで死んでしまうんですけれども、その死んでいくシーンすらも、どうやるかがまったく決まってなかったんです。

旧演出では(舞台に)盆があって、ガブローシュが弾が足りなくなって、すでに亡くなっている敵の死体から弾を抜いて、少しでも弾を補充しようとしてバリケードの外に出る。外に出たタイミングで舞台が回って、バリケードの外側を向くような演出でガブローシュが撃たれて死ぬんですけど、新演出に関してはその盆というシステムがなかったのでどうするのか、撃たれた衝撃でそのまま後ろに下がれるかとか。

何か決まったものをやるのではなく、新たにこれができるか、できそうなのか練習してみようかみたいな風に作っていったのは、あのときが初めてだったんです。子役って、基本的に言われたことをどれだけ即座に柔軟に対応できるかということが、ものすごく大事な能力だと思っていて。

『レ・ミゼラブル』を初めてやったときはすでに決まっていたし、『エリザベート』に関しても基本的な動きなどは決まっていたというか、場面がどう展開していくか決まっているなかで、自分がどう生きるかって感じだったんですけど、そのときの『レ・ミゼラブル』に関しては、全部新たに構築するというのがものすごく新鮮で、僕にとっては大きな経験でした。全然違ったんですよね。

バリケードだけじゃなくて、スライドが全自動で動くようになったり、椅子も自動で出てくるみたいな感じで、それが稽古場ではできないわけですけど、『どうなるんだろう?』って想像して。

たかが11歳ぐらいのガキんちょでしたけど、まじめに聞いて、頭の中でできる限りの想像を膨らませてやっていました。僕にとっては、さらにミュージカルに対する愛が深まった作品です。演劇というものに対してのあり方とか、本当にステキだなって思えたのも多分2013年ですね」

 

◆市川海老蔵(当時)さんに背中を押され

2015年、加藤さんは、六本木歌舞伎『地球投五郎宇宙荒事』で市川海老蔵(現・團十郎)さんと共演。俳優の道を歩むことを決意したという。

「当時は、『やりたい、これもやりたい。オーディションを受けさせてください』って言って、どんどんミュージカルの作品をやらせていただいて。道化師とかサーカスとか…ちょっと不気味な世界を描く『ラブ・ネバー・ダイ』という舞台の初演もやらせていただきました。いろんなからくりがあるんですけど、それを見られたのもすごく大きかったです。

そのあと、まったく違う、歌舞伎という世界で、歌舞伎の中でもかなり新しい挑戦的な舞台で散々お世話になってきた三池崇史監督と、散々お世話になってきた宮藤官九郎さんのもとで、海老蔵さんと『忍たま乱太郎』のときにお父さんだった中村獅童さんと共演させていただきました。

すごかったですよ。あの刺激はなかなか得られないなって思いました。もちろん、歌舞伎に出るにあたって、稽古が始まる前からいろんなことをイチから学ばせていただいて、たくさん教えていただいて見得(みえ)も切ったし…すごかったです、たくさん先生がいたので。

歌舞伎って基本的に演出家の方がいらっしゃらないなかで、三池監督が演出家として座られている。それで、海老蔵さんと中村獅童さんがいて、他にもたくさん大ベテランの方々がいらっしゃるなかで、14歳の僕がちょこんといて、ストーリーテラーもやったし、弟子役かと思ったら、劇中劇のなかでは杖を持って腰を曲げて与駄もやっている。しゃべり方も発声という意味でも、まったく違うものを教えてもらって学んで、もがいて…すごく大きな経験でした」

――そのときには俳優として一生やっていくと決めていたのですか。

「そのときに決めたんですよね。だから、そういう意味でも僕の分岐点になった作品なのかなって思います。僕は、稽古中にお芝居のことでものすごくいろいろと悩んでいて。

それとはまた別に『将来の夢ってひとつじゃなくてもいいかな、何でもなれるよな』みたいな感じだったんです。俳優さんとして楽しく続けていきたいという気持ちと、野球も好きだし、僕の大好きな阪神の赤星選手は、小学校の頃は野球をやってなかったけど、阪神であんなに活躍してカッコいい姿を見せたんだということは、中学生の僕はまだ(野球選手に)間に合うかもしれないとか思っていて。

休憩時間のときに海老蔵さんに『ずっと役者でやっていくの?』って聞かれたので『野球も好きで迷っているんですけど』って言ったら、『何言っているの?もったいないだろ。14年も役者をやっているのに、そのキャリアと経験を捨ててまで野球をやりたいのか?』って言われて。その一言で役者として生きていく覚悟を決めました。

役者って自分と違う人を生きる仕事だと思うので、実際に東京ドームに立って今のプロ野球選手たちと野球をするわけではないけれど、もしかすると野球選手の役が来る可能性はある。大好きな俳優を続けながら、大好きでなりたいと思っていた野球選手にもなれるかもと思ったら、そっちだよなって(笑)。そういう風に思えたのは、六本木歌舞伎のときが初めてでした」

――海老蔵さんとの出会いは大きかったですね。

「ものすごく大きかったです。お芝居の面でもものすごく刺激を受けましたし、今でも忘れないいろんなエピソードやトラウマレベルのドキッとした話もたくさんあります。

本番中に1列目のお客様が開演から10分後ぐらいしてから入ってこられたことがあったんです。それを見た海老蔵さんが僕に、『鯛蔵、今あの方は来られたばかりだから、(舞台が)始まってから10分くらいで起こったことを全部、今からさ、お前ひとりでやってくれない?』って言ったんです。

役の海老蔵さんと役の鯛蔵という関係値で言ったセリフでもあり、清史郎に対する挑戦でもあり…。それで、全部説明したんですよ。『まずですね、ここから僕が出てきて、この話をしました。そうしたら、携帯を持った海老蔵さんが、こちら下手の一番から出てきてですね…』とかっていうのをやらされたり(笑)」

――すごいですね。お客さんは喜んだでしょうね。

「すごく喜んでくれました。でも、無茶振りにもほどがあるので(笑)。もともとクドカン(宮藤官九郎)さんの作品なので、『どこまでがアドリブなのか?』って感じると思うんですけど、アドリブに見えて、ほとんどアドリブじゃないんですよ。

そのなかでガチのアドリブが入ると、どんどんこんがらがっていくというか(笑)。僕は1幕の頭は海老蔵さんとじゃれ合うシーンだったんです。でも、2幕の頭は、劇中劇から1回また楽屋に戻るんですけど、獅童さんと2人のシーンだったんですよ。で、獅童さんも獅童さんで、いろいろやってくるから(笑)」

――それに対応できたことがすごいですよね。

「結構ヒヤヒヤでした(笑)。ストーリーテラーもやっているから、次のシーンの転換のきっかけが、だいたい僕のセリフなんですよ。だから、どんなにいろんな方向に飛んでも何とかして軌道修正しないといけない。

僕が関わっていれば、ひとつひとつの言葉で言い直せたりするところもあるんですけど、海老蔵さんと獅童さんのやり取りでどこかに行ったときに、僕がその2人分を全部持ってこないといけなくて…。だってやらないと進まないし(笑)。そういう崖っぷちの状況で舞台上に立っていましたね」

――もう何も怖くなくなりますね。

「そうですね。何とかなるなというのは思いましたね。何とかするんだって(笑)。いい意味での自信は少しそこでついたのかなっていうのはありますね。すべてが100パーセントうまくいったわけでもないですし、もちろん(舞台)袖に帰ってきてからすごく反省する点もありましたけど、本当にすごくいい思い出です。

東京公演の次の年に地方公演にも行ったんですけど、役者でやっていこうと思った矢先に経験値のたくさんもらえる作品に関わらせていただいて、まだまだだなって感じられたのは大きかったですね」

――そのときには留学することも念頭にあったのですか。

「海老蔵さんと話をして役者として生きていきたいなと思ったのが中学1年生の冬ぐらい。その後、2年生の夏に進路を考えなきゃいけない時期に決めました。

英語がしゃべれるようになりたいし、海外の演出家さんと会ったときに、しゃべっていた他の役者さんみたいに何でもない話ができるようになりたい。もし、ご飯とかに行けたら作品の話ももっとできて、役も作品全体も少しでも良くできるのかもしれないと思っていたので、今かもしれないなって。

それこそ大好きなミュージカルは声変わりで、基本的にお仕事ができない状況でしたし、映像でもその年齢が一番お仕事がないというか。

たとえば中学2・3年生、高校1年生とかで身長が高かったら大人のキャストに紛れて高校生役とかもできるんですけど、僕は小柄だったのもあってなかなか難しかったんですよね。今でも高校1年生の役を高校1年生がやることって実は少なかったりするんです。現に僕も昨年、高校3年生の役をやっていたので。

もちろん高校3年間日本にいることでできる経験、関われる作品もあるにはありますし、関われなかったとしてもそれも自分の大きな糧になるとは思うんです。でも、それより留学して日々を過ごして、芸術も学んで…というほうが僕にとっては有意義なんじゃないかなと思って決めました」

2016年、中学を卒業後、加藤さんはイギリスの高校へ進学し、現地の演劇学校で演技の勉強も始めることに。次回はイギリスでの生活、主演映画『#ハンド全力』、日曜劇場『ドラゴン桜』の撮影エピソードなども紹介。(津島令子)

ヘアメイク:入江美雪希
スタイリスト:金順華(sable et plage)