16日に行なわれたU23アジアカップの初戦で、センターバックの西尾隆矢が前半のうちに退場してしまった日本代表。しかし松木玖生のゴールを最後まで守りきり、なんとか勝利をあげることに成功した。

なお、日本のフル代表がワールドカップで退場者を出したケースはこれまでゼロ。25試合に渡ってレッドカードを受けていないという記録を持っている一方、アジアカップではこれまで5回の退場者が出ている。

今回はその5名の選手を振り返っていこう。ちなみに10人になった5試合の成績は4勝1分けと負けなしで、退場者が出た4大会全てで日本は優勝を果たしている(逆に言えば退場者を出さなかった大会は全て敗退)。

松永成立





退場したアジアカップ:1992年広島大会

退場した試合:準決勝中国戦

その試合の結果:3-2で勝利

自国開催のアジアカップで、初めてA代表チームを構成して臨んだ1992年。ハンス・オフト体制のチームはギリギリでの戦いを乗り越えて優勝を果たした。

退場者が出たのは準決勝の中国戦。ゴールキーパーの松永成立が相手選手への乱暴な行為によってレッドカードを受けたが、その後中山雅史の決勝ゴールが決まって3-2と勝利を収めている。

なお、松永成立が出場停止となったあとにゴールを守ったのは前川黛也(現ヴィッセル神戸)の父親にあたる前川和也であった。

海本慶治





退場したアジアカップ:2000年レバノン大会

退場した試合:グループステージ第3節カタール戦

その試合の結果:1-1の引き分け

レバノンで行なわれた2000年のアジアカップ。フィリップ・トルシエ監督に率いられたチームは、中田英寿がクラブの事情で辞退したにもかかわらず、名波浩や中村俊輔、小野伸二、高原直泰などの有力選手が揃い、攻撃的なサッカーで優勝を果たした。

グループステージでサウジアラビア、ウズベキスタンに連勝して決勝トーナメント進出を決めていたこともあり、カタール相手の第3節ではターンオーバーを敢行。しかし22分に先制点を許し、先発起用された海本慶治が39分で退場になってしまった。

ただ60分には西澤明訓が同点ゴールを奪い、苦しい状況の中でなんとか勝点1を奪取することに成功している。

遠藤保仁





退場したアジアカップ:2004年中国大会

退場した試合:準決勝バーレーン戦

その試合の結果:4-3で勝利

日本代表の歴史上でも最も劇的な逆転劇と言えるアジアカップ2004のバーレーン戦。しかもさらに伝説的なヨルダンとのPK戦を終えたあとということで、非常に印象強いゲームだった。

開始直後にアラー・フバイルの先制点を許し、さらに前半40分で遠藤保仁の腕が相手選手に当たったとしてレッドカードが提示されてしまう。10人になった代表は中田浩二と玉田圭司のゴールで逆転するも、その後再び2失点して絶体絶命の状態に。

ところが90分に中澤佑二が起死回生の同点弾を決め、さらに延長に入ってすぐに玉田圭司が逆転ゴールを奪取。ドラマのような展開で勝利をもぎ取った。

川島永嗣





退場したアジアカップ:2011年カタール大会

退場した試合:グループステージ第2節シリア戦

その試合の結果:2-1で勝利

李忠成の劇的なゴールで優勝を果たしたザックジャパン。しかし開幕戦のヨルダン戦はギリギリまで追い詰められ、なんとか吉田麻也のアディショナルタイムでのゴールで勝点を拾っただけだった。

そして迎えた第2節のシリア戦も、長谷部誠のゴールで先制しながら72分に川島永嗣が退場してしまう。相手選手がオフサイドかどうかが微妙な状況での接触だったが、退場処分が覆ることはなかった。

PKで追いつかれたものの、その後本田圭佑のPKで再びリード。なんとか勝点3をつかみ取り、決勝トーナメント進出の可能性を高くした。

吉田麻也





退場したアジアカップ:2011年カタール大会

退場した試合:準々決勝カタール戦

その試合の結果:3-2で勝利

そして2011年大会はもう一人退場者が生まれた。決勝トーナメントの1回戦で地元のカタールと対戦した日本は、13分にセバスチャン・ソリアに先制点を許すという厳しいスタートになった。

その後香川真司が同点ゴールを奪ったものの、61分に吉田麻也が2枚目の警告を受けて退場に。さらにその直後のフリーキックをファビオ・セーザルに直接叩き込まれ、絶体絶命の状況となる。

しかしその後香川真司がこの日2点目を決めて追いつくと、試合終了間際にまさかの伊野波雅彦が決勝点を奪取。劇的な展開で逆転勝利をあげ、優勝への道を繋げた。