「『お母さん助けて』って。とにかくもがいた――」

氾濫した川の濁流に飲み込まれた、小学3年生の記憶。

全国で梅雨に入り、豪雨災害への警戒が必要な時期となりました。6月27日午前には九州北部地方で線状降水帯発生の予測情報が発表され、土砂災害や河川の増水や氾濫に備えて「早めの避難」が必要な地域が出てくるかもしれません。

71年前の水害で、濁流に流されながらも九死に一生を得たという男性が、今なお伝えたい「避難の大切さ」を振り返ります。
(初掲載:2023年6月22日)

流された橋や家 死者・行方不明者は563人

当時のナレーション「昭和28年6月26日 突如として九州を襲った大豪雨はわが県に未曽有の災害をもたらしました」

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1953年6月26日。熊本県内は24時間降水量が400mmを超える大雨となり、県内を流れる白川は熊本市中心部の至る所で氾濫しました。

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この水害で白川にかかる熊本市内17の橋のうち、長六橋(ちょうろくばし)と大甲橋(たいこうばし)を除く15の橋が流され、街は火山灰が混ざった泥で埋め尽くされました。

死者・行方不明者は563人にのぼり、多くの家屋に被害が及びました。

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母と弟、親子3人で避難所へ急いだ

「まさか白川が氾濫したとかはすぐは想像つかなかった」

熊本市の田尻康博(たじり やすひろ)さん(取材当時79)。当時と同じ白川にほど近い場所に現在も住んでいます。

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当時は小学3年生だった田尻さんはあの日、学校から帰り、自宅で4歳の弟と遊んでいました。しかし夕方、気付くと家の土間にまで水が入ってきていたといいます。

田尻康博さん「えー、なんだこりゃって思ってね。お母さん、ちょっと大変!って言って母を呼んだ」

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すぐに近くにある小学校に避難するため、母親は弟を背負い田尻さんの手を引いて、大雨の中、白川と逆の方向に歩き出しました。濁流が覆う道を避難所へと急ぐ親子。しかし、最初の交差点に差し掛かった時でした。

田尻さん「氾濫した水が私の子どものときの太ももの高さくらいになっている。だからものすごい急流、激流で母親とつないでいた手が離れたわけ」

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想像以上の水の勢いに踏ん張りきれず、母親と繋いでいた手は離れ、田尻さんは濁流に飲み込まれたのです。

田尻さん「『お母さん助けて』って。とにかくもがいた」

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濁流にのまれた田尻さん。その生死を分けたのは…

濁流にのまれた少年の手に当たったもの

20〜30mほど流された田尻さん。この場所にあった電柱が、田尻さんの生死を分けました。

田尻さん「なんか手に当たったね。それが電柱の支線だった。引っかかったのか捕まったのか、とにかくしっかり握ってそれで命拾いした。九死に一生」

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70年たった今でも、田尻さんはあの時の母親の表情が脳裏に焼ついて離れません。

田尻さん「とにかく『康博!康博!』って向こうからね。私もつかまっているから『お母さん、助けて』って。必死の形相っていうのかな、母の。あの怖さはやっぱり忘れません」

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翌日、自宅の様子は――

近くの産院に避難し、一夜を過ごした田尻さん親子。翌朝、自宅に戻るとその惨状に言葉を失いました。

田尻さん「自分の家と2軒くらい残っているだけで、あとみんな無くなっているから『これ何が起こったのかな』と」

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そこにあった多くの家は流され、跡形もなくなっていました。さらに…

田尻さん「川の近くに大きな楠があった。そこにつかまって『助けてくれ』って3〜4人言ってたね。水が轟々流れているからまだ助けられない。前日の夜からもう12時間近く、その方たちは木に必死で捕まって助けを求めとった」

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一夜にして激変した街の光景。慣れ親しんだ白川が持つ別の一面に呆然としたと言います。

田尻さん「70年前は無知って言ったらおかしいけど『白川は絶対に氾濫しない』みんな確信していた」

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その思い込みが、多くの犠牲に繋がったと感じている田尻さん。

田尻さん「雨が多くて洪水になったらどこに逃げるか」

当時の体験を語り継ぎ、災害に備える活動を行っています。

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空振りでもいい、早めの避難を

この70年の間にも、氾濫を繰り返してきた白川。「九死に一生を得た」かつての少年。その経験から『早期避難』の必要性を強く訴えます。

田尻さん「自然の力には私たちは勝てないです。水害はこれからも起こるかもしれません。空振りでもいいから、昼間の明るいうち、安全なときにまず避難をする。これが私は一番かなと思います」

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