独ベルリンの音楽学校では、世界的指揮者カラヤン率いる交響楽団が定期的に演奏会を開いていた。リハーサルの最中、マエストロに手紙を寄こした留学生がいた。「あなたの前で、一度ピアノを弾いてみたい」。5分もたたないうちに届いた返事は「来い」だった◆一生に一度めぐり会えるかどうかのチャンス。カラヤンの前に進み出た彼女はしかし、鍵盤に向かうことができなかった。心の準備ができていなかった。きのう訃報が届いたフジコ・ヘミングさんのほろ苦い思い出である。チャンスは〈ふさわしい時期がくるまで用心深く過ごすということも大事な場合がある〉と◆国籍を持たず、28歳で「難民」として留学。苦学の末、成功を目前に聴覚を失う…。そんな陰影を刻んだ前半生を経て、68歳のCDデビュー。幅広い共感を呼んだのは、「自分の生き方を大切にしていれば、いつかきっと人生がいい方向に向かう」というメッセージだろう◆「少しくらい間違ってもいいじゃない。機械じゃないんだから」。完璧より作曲家の魂に迫る演奏を目指した。愛した曲「ラ・カンパネラ」は、一人のノリ漁師の胸を揺さぶり、佐賀を舞台にした映画に実を結ぼうとしている◆「遅くなっても待っておれ。それは必ずくる」―心の糧にした聖書の言葉通り、音楽で希望の灯をともした人だった。(桑)