◆これまでのあらすじ◆
一方的に離婚届を送りつけてきた夫だが、楓は離婚の理由を聞かされていない。また、財産分与にまつわる夫の財産など、夫婦といえど夫のことを何も知らなかった。
しかし、探偵事務所や友人の話を聞いて「夫はもしかしたら浮気していたのでは?」という疑惑が浮かび上がる。
そしてある日、幼稚園の送迎から家に戻ると、家の鍵が開いていて…。


▶前回:夫に離婚を思いとどまらせるために。妻が決してやってはいけないNG行為とは?



Vol.4 夫の言い分


「み、光朗さん…。何してるの…?」

久しぶりに見る夫の姿だった。

言いたいことはたくさんあるのに、なぜか言葉が出てこない。必死に頭の中で言葉を組み立てるが、それを夫にぶつけていいものか、楓はすぐに決心できなかった。

光朗は、何も言わず俯きがちにただそこに立っていた。

もともと年の割にスレンダーな体形を維持していた夫だったが、さらにほっそりとし、やつれたようにも見える。

探偵や女友達と夫のこれまでの行動を振り返り、彼が出ていった原因は浮気に違いないと楓は思っていた。だが、実際に夫と対峙してみると、もしかしたら妻には言えない、やむにやまれぬ理由があって家を出たのかもしれない…と、楓の心は揺れた。

「心配…してたのよ」

一言だけ絞り出すように、楓は言葉を繰り出した。その瞬間、目の奥が熱くなり、意図せず一粒の涙がこぼれ落ちた。

夫の口から、何らかの理由を聞きたかった。だが、光朗は微動だにしない。

「どうして帰ってこなくなったの?突然離婚ってどういうことなの?」

楓にとって最も恐ろしい問いを繰り出すと、あとは堰を切ったように、たまったものがどっと溢れ出してきた。

「私のことはともかく、花奈が…娘がどうしているか気にならないの?父親としての責任は?」

出てくるのは疑問符ばかりだが、光朗はそれに対して何一つ答えようとはしなかった。楓がにじり寄り責めるほど、光朗の無気力さが際立つようだった。

さっき流した涙はなんだったのだろう。無反応な光朗に、楓はもはや憤りを感じ始める。

「何も言わないなんてズルい!何か言いなさいよ!」


決してそうしたかったわけではないが、気がつけば楓は、自分でも驚くほどの金切り声で光朗に向かって叫んでいた。

すると光朗は、ぴくりと小さく反応する。

よく見ると、光朗は唇を小さく震わせ、両手をぎゅっと拳に握っていた。肩をわなわなと小刻みに揺らし、必死で何かに耐えていた。

「う…」

小さな唸り声のような低い声が漏れた。そして、ぎゅっと唇を噛み、一点を凝視しながら、今後は何かに耐えるように体を震わせ始めた。

「う、うわあああああ!!!!!」

突然耐えきれなくなったように、光朗が喚き叫んだ。楓は一瞬恐怖を覚え、一歩二歩と後ずさりする。

光朗は肩で息をしながら、リビングのソファに崩れるように座りこんだ。これ見よがしに大きなため息をつき、ぎろりと上目遣いに楓のほうを見た。

要するに、開き直ったのだ。

「あの…」

さっきまでの勢いはすっかり忘れ、楓は何を言っていいのかわからなくなった。

光朗はきっと、こうなることは想定済みだったのだ。明らかに優位に立った光朗は、まるで用意していたかのように早口にまくしたてる。

「僕はね、結婚当初から、もしかしたら性格が合わない人と結婚してしまったのかもしれない、と思っていた。君は気づいていなかっただけだ!」

淡々としていたが、鋭利な刃物のように刺さる光朗の言葉。楓は何も発せず、ただそれを受け止め、聞いた。

「子どもが生まれたら、性格だけでなく教育方針も食い違った。僕は、小さいうちは習い事などさせず、たくさん自然と触れ合わせてのびのびと育てたかった。けど、君は違っていた」



楓は少し先の床の一点を見つめながら、光朗の話を聞いていた。だが、聞いて理解するというよりは、聞き流していたという方が正しいだろう。

― なんか嘘っぽい…。

直感的にそう感じたのだ。何かを隠しているのは明らかだった。

家を出ていく前と出て行った後で、夫の人格ががらりと変わったように楓には感じられた。楓は、夫が離婚したい理由以上に、彼が変わった原因を知りたかった。

ソファに横柄に座る光朗の前に、楓はそっと立った。光朗はそんな楓のことなど気にも留めず、片手でスマホの画面を手繰りながら冷たく言い放る。

「何か言いたいことでもあるなら、言えばいい。僕の気持ちは揺るがない」

しかし、楓は夫の態度に臆することなく、意を決して夫の目前にしゃがんで膝をついた。

そして、手をつき、頭を下げ、これまでの態度を詫びたのだった。

「あなたの気持ちに、まったく気づかず、申し訳ありませんでした。

でも、花奈のためにどうか離婚だけは、思いとどまってください」

光朗は一瞬、チラリと楓の方を見たが、すぐに目線を逸らし立ち上がった。

「今さら謝ったって、修復は無理だろう。そもそも僕には一切その気がない」

目の前で謝罪する妻に対して、すでに少しの情もないようだ。

「今、離婚に同意するなら、悪いようにはしない。養育費も払う。でも、君が弁護士に相談したり、両親に相談したりして事をややこしくするつもりなら、僕も容赦はしないよ」

顔を上げると、楓を冷然と見下ろす光朗と目が合った。

「わかりました。でも、今すぐは…決心が…。少しだけ気持ちを整理するために時間をください」

楓の本心ではなかった。だが、ここで反論しても関係がややこしく拗れるだけだと思った。

「なるべく早く頼むよ」

光朗はそう言うと立ち上がり、そそくさとその場から立ち去った。

パタン、と玄関の扉が閉まる音がすると同時に、楓の体から一気に力が抜ける。ゴロンとその場に横たわり、天井を見上げた。



もともと光朗は、娘の幼稚園の送迎を買って出てくれ、その上「ゆっくりして」と妻を気遣う優しい夫だった。

わずかそこから数週間。さっき目の前にいた男が同じ人物とは信じ難かった。

「何あれ?っていうか、いきなりあそこまで人格変わるもの??

もしかして多重人格?」

大きな独り言を吐き、深くため息をついた。

さっきの夫は、まるで意思のコントロールができない生き物のようだ。

そもそも、彼が妻の留守に家にやってきたのは、偶然なのだろうか?楓に出くわしたのは、彼にとって想定外だったのではないか。故に、まるで子どものように叫び、自分勝手に文句ばかりを並べ、謝る妻を見下し、家から出て行ったのかもしれない。

彼が大声で叫んだ時、もう夫にしがみつく理由はない、と楓は瞬時に思った。

光朗には「離婚は考え直して」と懇願しながらも、それは本心ではなかった。楓が心の中で考えていたことは、「より有利な条件で離婚をするには」ということ。

さっき光朗に謝罪をしたのは、「夫婦のどちらか一方が離婚したくないとゴネているうちは、離婚は成立しない」という弁護士の助言を思い出したからだ。

― 彼のいいなりで離婚なんてしない。より有利な条件でするの!

楓は改めて自分自身に誓った。




数日が過ぎ、週末になった。光朗が家を出てからというのも、週末はいつも憂鬱だ。

新緑がまぶしいこの季節。花奈を外に連れ出してやらなくてはと思うが、一歩外に出ればカップルやファミリーが皆楽しそうに歩いている。そんな光景を見ると、「なぜ私だけがこんな目に?」と思ってしまう。

そんな楓の心中を察してか、今日は保育園のママ友でかつ、離婚経験者の晴子が子連れで遊びに来てくれたのだった。別室で子ども同士楽しく遊んでいるから、楓たちはゆっくりと話をすることができる。



「向こうはとにかく離婚したい、ってことよね?事を荒立てなければ、養育費だけは保障するから印鑑を押せ、と?」

「まぁ、簡単に言うとそういうことみたい」

一通り楓の話を聞くと、晴子は呆れた様子でコーヒーカップを置いた。

ついこの間までただのママ友だった晴子は、今や心強い相談相手になってくれている。

晴子との距離が急速に縮まったのは、気が合ったことはもちろん、やはり置かれた境遇が似ていることが理由だろう。

晴子は、まっすぐに楓を見つめながら優しい声で言った。

「私、楓さんには頑張ってほしいの。心の底から応援してる。だから、1人で悩まずに何でも相談してほしいよ」

かつて晴子が離婚した時には、夫に言われるがまま離婚届に判を押してしまったのだという。

「もっと抵抗すればよかったんだけど…」と言いながら、晴子は昔の自分を懐かしむように、ぽつりぽつりと自身の離婚までの経緯を語り始めた。

「私が結婚したのはね、25歳の時。結婚生活は3年続いて、28歳の時に離婚したの。そもそも結婚自体、親に反対されてたんだけど」

とても人ごととは思えない、晴子の経験談。だが聞きながら、ある疑問が浮かんだ。

「待って。晴子さん、28歳の時に離婚した…って言った?」

たしか晴子は、今年35歳。子どもの年齢と離婚した年齢が、微妙に合わないのだ。

晴子はすぐに察したようで、すかさず補足した。

「ごめんごめん。夫との間に子どもはできなかったの。一応、バツイチのシンママってことになっているけど…娘の父親は離婚後に少し付き合っていた人で、結婚しないまま1人で産んだのよ」

「そうなんだ…」

相槌を打ちながら、楓は感心してしまう。こうした決断からも、晴子の芯の強さが垣間見える気がした。

15歳上だった夫から晴子は、とにかく早く子どもが欲しいと言われ続けていたそうだ。しかし、1年経っても、2年経ってもできなかった。

「夫のことが好きだったし、尊敬もしていた。なのにある日突然、子どもができないことや、年齢差からくる意見の食い違いなんかを理由に、離婚したいって言われたの」

その後、彼の両親からも「離婚を承諾してほしい」と言われた晴子は、仕方なく離婚届にサインをした。自分の両親に反対されていた結婚だったから、相談もできなかった。

八方塞がりだった晴子は、家を出ていくための準備金として100万渡され、家を出た。

「でもその後に知ったのよ。夫は浮気をしていて、間もなく別の女性と再婚したって」

その時の悔しかった気持ちが、いまだに忘れられない。そう晴子は振り返る。

「あまりにも悔しくて、離婚した後でも慰謝料とれないかな、って色々調べたんだ。最初から弁護士に相談しておけば、もうちょっとまともな別れ方ができたかもしれないって思う」

楓は、晴子の話に今の自分を重ね合わせ、何度も頷き共感した。

「晴子さん、ありがとう。晴子さんに背中を押してもらったおかげで私、決意したの。やるだけやってみる」

うまくいくかはわからないけれど、後悔だけはしたくない。覚悟を決めた楓に、晴子の存在は心強く、いつの間にか2人はしっかりと手を握りあっていた。

「で、何から始めるの?ちゃんと計画立てたほうがいいよ」

晴子は好奇心半分、心配半分といった感じなのだろう。だが、楓も同じだ。幸せな未来とこれから起こるであろう波乱は、表裏一体。気を引き締めなくてはならない。



「まず、これを持って弁護士事務所に行ってみようと思うの」

そう言って楓がスマホの画面上にある赤いボタンを押すと、晴子には聞き慣れない男性の声が再生された。

「これってもしかして?」

「そう。この間、夫が家に来た時、音声を録音しておいたの。なにか役に立つかもしれないから」

私自身のために、最高の離婚がしたい。

スマホから流れる夫の声を聞きながら、楓は改めて決意を固めたのだった。



▶前回:夫に離婚を思いとどまらせるために。妻が決してやってはいけないNG行為とは?

▶1話目はこちら:結婚5年。ある日突然、夫が突然家を出たワケ

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