市北部の「長後」の由来は諸説あり、その1つが「高座郡の長」という意味の「長郷」から変化した説だ。高座郡は中世末まで、藤沢沿岸から相模原市までの南北に伸びる郡だったとされている。

「高座郡で力を持っていた御家人の渋谷重国が、長後に深く関わっている」と話すのは、同地の歴史を調査する小宮正養さん(78)だ。一帯を「渋谷庄」として支配した重国が「長後坊」と称し、地名の由来になったという説がある。

現在の長後天満宮周辺が、重国の居城だったとされる。「拠点は綾瀬市早川にあったという説もあるが、地名からして長後が一族の主要拠点だったのは確かではないか」と小宮さんは推測する。

一族は1213年の和田合戦で北条氏に敗れ没落したが、長後はその後も交通の要衝として栄えた。江戸時代前期までは、天満宮の前を東西に伸びる元大山道沿いが同地の中心だった。「現在の駅周辺が栄えたのは、宝永の富士山噴火による元大山道の被害と、この地で養蚕が行われるようになってから」と小宮さん。同地は、織物業が盛んな八王子につながる滝山街道の宿場町として、「藪鼻宿」と称された。鼻は先端の意味を持ち、一帯が巨大な薮だった当時の風景を表しているという。

明治以降、同地で生産した生糸は横浜に運ばれ、アメリカなどに輸出された。宿場町としては羽根澤屋などの旅籠や商家が立ち並ぶ地として発展した。「それが世界恐慌による輸出産業の不振や、関東大震災による工場の倒壊などで衰退してしまった」と説明する。

小宮さんは「歴史散策の会」会員として史跡の調査を続ける。同地の史料を収める羽根澤屋資料館の運営にも携わるなど、多くの変遷を遂げた長後の歴史を未来に継承する。「いつかは消えてしまう痕跡も、残せるものは残していきたい」と力を込める。