それにしても「世渡りの道はつらいものだということを」と、式部は男たちに歌で密かに思いを投げかけていますが、えらく上から目線ではあります。私から見れば「世渡りの道はつらいものだ」ということをわかっているのは、身分の低い男たちのほうであり、深窓で育った式部ではありません。

式部はそれを理解していたようには、歌からは思われませんが、都の貴族の娘として育ったものの性というべきでしょうか。上から目線で、お嬢様気質というものが、式部にあったように思うのです。

夏に越前の国府に入った式部たちですが、北国の冬の訪れは早く「暦に初雪降ると書きたる日、目に近き日野岳といふ山の、雪いと深う見やらるれば」(暦に初雪が降ると書いた日、すぐ側の日野山に雪が深く積もっているのを見て)との詞書が付いた「ここにかく日野の杉むら埋む雪小塩の松に今日やまがえる」との歌を詠んでいます。

歌のなかにある「小塩」(の松)とは、京都市西京区にある小塩山を指しています。この山の麓には大原野神社があり、藤原氏の氏神が祀られていました。越前の雪を見ても、式部の心を占めているのは、都のことでした。

「日野山に雪が積もっているが、都の小塩山の松にも、雪は舞っているのであろうか」と望郷の念にかられているのです。

式部の心はつねに都にあった

式部が住む邸にも雪は降り積もったため、軒先の雪を掻きやり、庭に「山のやうに」積み上げることもあったようです。

人々はその雪の小山に登り「なほ、これ出でて見たまへ」(さぁ、出ていらして、雪山をご覧ください)と式部に勧めたようですが、式部はそのときの想いを「ふるさとに帰る山路のそれならば心やゆくとゆきも見てまし」(故郷の京の都に帰る山路の雪ならば、見にも行きましょうか)と歌に詠んでいます。つれない様子です。

式部はこの歌の詞書に「いとむつかしき雪」(面倒な鬱陶しい雪)と書いています。式部にとって、降り積もる越前の雪は、残念ながら、鬱陶しい以外の何物でもなかったようです。

式部の越前での生活は、1年ほど続くことになるのですが、彼女が、ほかに、この地の風俗や風物を詠んだものは、紫式部集のなかにはありません。何かは詠んでいたはずですが、おそらく、家集を編纂するときに、意図的に外されたのでしょう。紫式部の心は越前にはなく、つねに都にあったのでした。

(主要参考・引用文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)

著者:濱田 浩一郎