堀内:現在、世は教養ブームで、丸山さんも番組制作や講演などに引っ張りだこかと思うのですが、教養や教養教育について、また、教養をどのように実際の仕事に活かすのかといったことについて、どのような見方や考え方をされていますでしょうか。

丸山:「ファスト教養」という言葉でも表現される現象が象徴的だと思いますが、いまや教養も市場の「商品」となってしまった感がありますよね。教養という以前に、それこそコスパ、タイパなどの言葉もあるように、限られた時間の中で手っ取り早くとりあえず現代社会を生きる武器が欲しいという感覚で「消費」されていく状況は、「情報」の効率的な共有という面ではやむを得ないところがありますが、本来的な「教養」という意味ではやはり残念なものがあります。「情報」ももちろん大事ですが、「教養」という領域には、数値化や相対化を拒むような、次元の異なる広がりがあると考えるからです。

「商品」としての教養で自分自身の存在まで「消費」されないためにも、常にメタレベルと言うか、全体を俯瞰した視点でものごとを捉え続ける、自己洞察を連続的にしていく感覚を持つことが大事になると思います。逆説的な言い方をすれば、流行りの商品、消費財としての教養的なものでも相対化し批判的に戯れることができるのも教養的なマインドの奥行きがあればこそ、と、そこでも教養を試されているという言い方もできるかもしれませんね。

「見たいようにしか見えない」人間の性を超えて

堀内:そのための方法論というのは、丸山さんの場合、引き続き番組制作を通してやっていこうということになるのでしょうか。

丸山:確かにひとまずは、映像制作の試行錯誤を通して、ということになります。制作の過程は、考える材料に事欠かない、実に様々なジレンマに満ちていますから。そう言えば「新世代が解く!ニッポンのジレンマ」という番組もありましたが、僕の中の隠しテーマとしては、ジレンマを「解く」というより「楽しむ」ことでした。葛藤に直面しても、結論を急ぐことなく、楽しみながら付き合っていける感覚が重要だと思うんです。

時々好きで思い出すのですが、漱石の『草枕』の冒頭に「智に働けば角が立つ。」に始まる有名な書き出しがあります。「情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」と続くわけです。その後、人間関係には疲れたけれども、だからと言って「人でなし」の世に行くわけにもいかないというところから小説は始まります。

あの漱石の3、4行の中に、この社会の中で人が抱える悩みの変わらない構図が簡潔に表現されているように思います。そして、そんな中で自分がどう生きるのかを考えるための大事なヒントがあの不思議な小説にはあるように感じます。ちなみにそれについては、『14歳からの個人主義』という書で触れました。

そうした引き裂かれる思いの中で、どのように考え続けるかと言えば、僕はデュアルな思考のセンス、内村鑑三の有名な言葉ではないですが「ニつの中心を持った楕円」を思い浮かべます。楕円の思考の重要性です。たとえば資本主義社会において「資本の運動」があるとしたら、それに対してあるスタンスをとるためには、利潤の論理と同時に倫理的思考の軸をもう一つに置くように、同時にニつの中心を意識することが重要になってくると考えます。

つまり、単線的に、何か一つの論理でものを考えるというより、二元論的な構造を意識し、常に緊張関係の中で両方の論理を動かすような感覚が大事なのではないかと。そうしたものの見方を養い、その緊張関係を楽しめるのも教養の力だと言えるでしょう。映像の人間だからこそのレトリックで表現すれば、「蟻の目」も、「鳥の目」も、リアルを掴むためには両方必要というイメージです。