偉大すぎる9人の男達! 日本のモータースポーツ史は彼らの活躍なくして語れない!!

この記事をまとめると

■日本のモータースポーツ界に多大な影響を与えた人を9名紹介

■世界中で大活躍し、伝説的な記録を残したドライバーも多い

■引退後は監督として指揮を取ったり、チームを運営する代表になっているケースもある

日本が世界に誇る偉大なるレーサーたち

 2024年、今年はホンダが初めてF1に参戦してからちょうど60周年。日本初の常設サーキット、多摩川スピードウェイで「第1回全日本自動車競走大会」が開催されたのは1936年で、「第1回浅間高原レース」は1955年。

 この間、日本は自動車大国になり、F1やWRC、ル・マン、インディとビッグレースも制してきた。

 こうした日本のモータースポーツの興隆に大きく貢献したレジェンドたちをここで振り返ってみよう。

本田宗一郎

 本田技研工業の創業者、本田宗一郎こそ日本のモータースポーツ界の大功労者だ。

 ホンダ設立前の1936年、全日本自動車競走大会(多摩川スピードウェイの第1回大会)に自らレース仕様に仕立てた「浜松号(フォードベースの自作スーパーチャージャー)」で出場。

 そして本田技研工業を興し、マン島TTレースにチャレンジ(1959年)。

 1962年には国内初の本格的なサーキット、鈴鹿サーキットが完成! 「レースは走る実験室」と称し、いいクルマを作るために、積極的にレースに参戦。二輪、四輪で世界一を目指し、その夢を実現した功績はあまりにも大きい。

髙橋国光

 1961年、ホンダのワークスライダーとして世界グランプリ(西ドイツGP)で日本人としてはじめて優勝したレーサー。その後四輪に転向し、日産ワークスの三羽ガラスとして活躍。JSPCでは4度のチャンピオンに輝き、1995年にはNSX-GT2で、ル・マン24時間クラス優勝。1999年、59歳までJGTCの第一線で戦って引退(引退の年も1勝)。自チーム、チームクニミツの監督も努めた。

長谷見昌弘

 天才肌であると同時に理論派でもあるドライバー。1976年F1イン・ジャパンに日本製F1マシン=コジマKE007で出場し、予選で最終コーナーまでぶっちぎりのタイムを記録。そこでサスアームが破損し、F1デビュー戦でのポールポジションが幻に……。

 1980年に前人未踏、富士GC、全日本F2、鈴鹿F2、フォーミュラ・パシフィックの四冠を達成。1992年のデイトナ24時間レースでは、日本人ドライバーによる日本車初優勝を成し遂げている。またレースだけでなく、ダカール・ラリーやラリー・モンゴリアでも活躍した。

今でもレース現場で大活躍中!

星野一義

 ご存じ「日本一速い男」。1976年F1イン・ジャパンでF1デビューした際、雨の決勝で21番スタートからわずか10周で3位まで浮上。18台抜きのパフォーマンスで世界をあっといわせた。1985年、富士スピードウェイで開催されたWEC-JAPANでは、マーチ・85G/日産を駆って、世界選手権レースでの初の日本人ウイナーとなった。

 1992年のデイトナ24時間レースでは、長谷見昌弘、鈴木利男とともに優勝。

 グループAではカルソニックカラーのスカイラインGT-R(R32)を駆り、縁石を跨ぐ熱い走りでファンを魅了。「燃える闘魂」の体現者で、エディ・アーバインをはじめ、ハインツ=ハラルド・フレンツェン、ジョニー・ハーバートなど、全日本F3000で星野と戦い、その後F1ドライバーとなった面々からは、リスペクトされる存在だった。

中嶋悟

 日本人初のF1フルタイムドライバー。日本のF1ブームは中嶋悟の参戦と、鈴鹿での日本グランプリからはじまった。

 1989年最終戦のオーストラリアGPでは、日本人初のファステストラップも記録! 長男、中嶋一貴もウイリアムズから2シーズンF1に参戦した実績がある。

鈴木亜久里

 日本人2人目のF1フルタイムドライバーで、日本人ではじめてF1の表彰台に立ったドライバー(1990年の日本グランプリ、マシンはローラLC90 ランボルギーニ)。

 引退後はスーパーGTでお馴染みのARTAの代表を務める。2006年から2008年途中まで「スーパーアグリF1チーム」を率いてF1にも参戦していた。

佐藤琢磨

 世界三大レースのひとつ、インディ500を2017年、2020年と2回も制したレーシングレジェンド。2001年には日本人として初めて、イギリスF3でチャンピオン、同年マカオGPでも日本人ではじめて優勝している。

 2003年から参戦したF1では、2004年のヨーロッパGPで日本人初のフロントロー獲得、ラップリーダーを記録。アメリカGPでは3位フィニッシュで表彰台に。

 現時点で、もっとも結果を出した日本人ドライバーといえる。

篠塚建次郎

 日本人ではじめて世界ラリー選手権 (WRC)とパリ・ダカールラリーでウイナーとなったラリードライバー。1980年代後半からのパリダカブーム、パジェロブームはシノケン効果が大きい。

 今年3月、膵臓ガンのため逝去。

新井敏弘

 2005年、PCWRC(プロダクションカー世界ラリー選手権)のチャンピオンを獲得。FIA公認の世界選手権で、日本人初のワールドチャンピオンに輝いた。

 2007年にもPWRC(プロダクションカー世界ラリー選手権)シリーズチャンピオンを獲得し、「世界のトシアライ」として、日本のラリー界を牽引。

 そのほか、ホンダF1の初代監督、中村良夫は、1965年のメキシコGPで、ホンダRA272改が初優勝を果たしたときの監督で、現地から「Veni, vidi, vici(来た、見た、勝った)」と電報を送ったことでも有名。

 またホンダの第二期F1参戦で指揮を執った、桜井淑敏もモータースポーツ史に残る名エンジニア、名監督だった。