「はつへさんが作ったお漬物、病院で大人気だったってね。今度は僕にも作ってください」

他愛ない話で談笑する鈴木はつへさんと江角医師(WEDGE以下同)

 患者の手をぎゅっと握りながら、大きく、ゆっくりとした口調で話しかけるのは医師の江角悠太氏だ。三重県志摩市の小さな港町にある志摩市民病院の前院長であり、現在も地域医療医務監として訪問診療を行っている。

 問診の終わりに「もういつ逝ってもええわ」と冗談を言う101歳の鈴木はつへさんに対し、江角氏が「僕がいたらもうちょっと長生きしますよ」と返すとその場に笑い声が響いた──。

 志摩市のように、地方の中でも「へき地」といわれるエリアの医療をとりまく状況は一段と厳しい。

 そんな中、東京都出身の江角氏がへき地医療に従事する決定的なきっかけは東日本大震災だったという。江角氏は「震災前までは、自分の夢である『世界平和』と、自分の選んだ『医師』という仕事が結びついていませんでした。両方の使命がつながったのが震災でした」と振り返る。

 江角氏が世界平和の夢を描いたのは18歳の時だ。通っていた高校では生徒と校長が対立し、一部の生徒が卒業式のボイコットを計画していた。それを知った江角氏が両者を仲裁し、校長と生徒が望むやり方の卒業式を2回連続で実施することで決着させた。

 「式では昨日までいがみ合っていたとは思えないくらい、みんなが笑顔で歌っているんですよ。その光景を見て、同じことを世界中でできれば『世界平和』が実現できると思ったんです」

 17歳の春に映画『パッチ・アダムス』を見て医者になることを決めた江角氏だったが、三重大学医学部在学中は医学の勉強よりも、バーを開いたり、車で全国を旅したりして人を笑顔にすることに没頭していった。

 そんな中で起きたのが東日本大震災だった。震災翌日、現地の友人から「医者と看護師がいないから助けてほしい」と言われ、2週間後にはいわき市に向かった。すでに避難所の医師は充足していたため、医療が届かない避難勧告エリアに残る人たちを助けようとしたが、保健所からはこう言われた。

 「君たちが行くと、またそこに人が戻ってきてしまう」

 江角氏も当初は理解を示したというが、実際に避難しなかった人たちから「イノブタ1000頭を置いて逃げられるわけがない。家畜も家族だ!」、「避難所は生きた心地がしない。死んでもいいから家で暮らしたい」と言われ、ハッとしたという。

江角医師が再生に導いた志摩市民病院。時計台が特徴的だ

 「ここに残っている人たちは、へき地で在宅医療を希望する高齢の患者と同じだと思いました。国の制度や政策があれば99%の人たちは救うことができます。でも絶対に救えない残りの1%の人がいるんです。自分が医者としてその1%を救うことができれば、100%になり、世界平和も実現できます。私は『そこに住む理由のある人』を救いたいのです」(江角氏)

 だからこそ、江角氏は2016年に志摩市民病院の院長となったときから「絶対に断らない」という理念を掲げ、どんな人も受け入れることにこだわっている。実際、16年には20床程度しか埋まっていなかった病床は半年で倍となり、今では95%の稼働率で60床が埋まる。在宅患者に関しては年間100件のペースで増えているという。