遣唐使の准判官に任じられる

 転機が訪れたのは四十一歳の承和元年(八三四)の時であった。この年、延暦以来の発遣が決定した遣唐使の准判官に任じられたのである。前にも述べたように、この最後の遣唐使は、小野篁の一件などもあって、なかなか出帆しなかった。この間、承和二年(八三五)に、外従五位下に叙され、大膳亮・美作権介を兼任した。

 任命から二年後の承和三年(八三六)、遣唐大使参議正四位下藤原朝臣常嗣に従って、第一舶に乗った。高名は船上の雑事を大使に委任されたとある。夏四月、更に難波の三津浜に於いて、内位の従五位下に叙された。

 律令官位制の原則では、基本的には内位は中央氏族、外位は地方豪族や格の低い氏族が叙されるものとされていた。また、四等官のなかで次官は長官と同じ職掌を持ち、長官が不在の際はそれに代わってその官職を代表する。高名がそれまで外位を帯し、第三等官を歴任してきたのに対し、ここで内位の五位(すなわち貴族)の次官(大膳亮・美作権介)の地位に上ったというのは、これまでとはまったく異なる立場となったことを意味する。

 さて、第一舶は三度目の渡航で、困難を極めた航海の後、幸いにも六月に唐の揚州の海竜県桑田郷桑梓浦に着いた。その後、副使の小野篁がいなかったので、高名は長安に赴く三十四名に選ばれ、十月に来朝した。承和六年(八三九)正月、高名も殿に上って皇帝(文宗)に拝謁することを許された。

 閏正月、一行は第一船と第四船が航行不能となっていたため、新羅船九隻を雇って、日本に向けて帰国の途に就いた。その時には渡航ルートを巡って高名と常嗣の間で対立が生じたが、結局は高名の主張が通って、新羅の南岸沿いの航路を利用した(『入唐求法巡礼行記[にっとうぐほうじゅんれいこうき]』)。

 この時、短期の請益僧であった円仁ら四人は途中で下船して不法滞在を続け、「会昌の廃仏」という弾圧を受けながら五台山を目指した。その過程で滞在したのが、先に述べた赤山法華院である。私がどうしても赤山法華院を訪れたかった理由がご理解いただけよう。なお、円仁は帰国後の仁和四年(八八八)、京都の北東の表鬼門に赤山禅院(せきざんぜんいん)の創建を命じている。

 話を高名に戻すと、帰国後の九月、従五位上に昇叙され、次侍従となった。十月には伊勢権介に任じられ、また外任が始まった。承和七年(八四〇)正月には正五位下に叙されている。行なったところの政事は頗る民の望みに合っていたというから、また善政を行なったのであろう。八月には別に勅が有って、都に召されて嵯峨院別当となり、すぐに山城守に任じられた。ここではじめて、長官となったのである。高名は太上天皇として権力を振るった嵯峨の側近に仕えることとなったのである。

 しかし、承和九年(八四二)に嵯峨太上天皇が病に倒れると(七月に死去)、六月に高名は四十九歳で阿波守に遷任された。上国という格の国同士とはいえ、平安京のある畿内の山城守から阿波守では、ずいぶんな左遷である。しかし、翌承和十年(八四三)には五十歳で大国という最上格の伊勢守に転任された。こんどは六年の任期いっぱい勤めることができ、またもや政事には有能という評判を得た。承和十五年(八四八)に従四位下に叙され、嘉祥三年(八五〇)に播磨守に任じられた。播磨も最上格の大国である。この年にはすでに五十七歳に達していた。

 すでに当時の平均寿命を越えた頃、また転機が訪れた。仁寿元年(八五一)に従四位上に叙された。四位というのは大化前代の大夫(マヘツキミ)に由来する高位である。仁寿四年(八五四)には正四位下に昇叙されている。これは八省の長官である卿に相当する高位である。そして斉衡二年(八五五)、六十二歳で右京権大夫に任じられ、翌斉衡三年(八五六)、六十三歳で山城守に任じられた。ここでも政事は厳正で公明に行ない、百姓が騒ぎ立てるようなことはなかったという。

 しかし、高名がその才を発揮し続けることはなかった。すでにその寿命は尽きていたのである。平生から子孫には、自分が死んだら薄葬を行なうよう命じていたが、天安元年九月三日、官司(山城国衙)において卒去した。六十四歳であった。なお、山城国府の所在地は、何次にもわたって移転しているが、遺跡はいまだに確定していない。

 この間、朝廷の権力中枢部では、桓武(かんむ)・平城(へいぜい)・嵯峨(さが)・淳和(じゅんな)・仁明(にんみょう)・文徳(もんとく)天皇と時代は遷り、藤原氏の数々の官人が政権を担当し、一方では平城太上天皇の変(薬子[くすこ]の変)や承和の変など様々な政変が起こったが、高名はそういう動きとはまったく無縁に、与えられた官を黙々と勤めあげ、その出自から考えると異数の出世を遂げたということになる。それもすべて、若年時の学問の研鑽、および生活の環境から培われた、深い学識と高潔な人格によるものであろう。華やかな皇位継承や政権抗争の下部には、このような下級官人層の日々の営みが存在したのである。

 河内の渡来系氏族出身で貧乏だった高名が、これほどの出世を遂げ、(当時としては)天寿を全うして人生を終えたことには、普段は出世ということにあまり価値を置かない私でさえ、思わず喝采を送ってしまう。高名の死は、執務中の突然死だったのであろうが、官司の中で卒去するというのも、いかにも高名らしい。本人の脳裡に去来したものは何だったのであろうか。

 なお、高名の子孫や縁者は、まったく六国史から姿を消す。しかし、摂関期の古記録には、六位以下の下級官人もたくさん登場する。長岑氏でいうと、藤原師輔(もろすけ/道長[みちなが]の祖父) の『九暦(きゅうれき)』の天慶(てんぎょう)七年(九四四)の記事に、近江国の焼亡した糒倉と兵庫の修理料として銭千二百貫を進上した長岑数種(かずたね)、藤原実資(さねすけ)の『小右記(しょうゆうき)』、藤原行成の『権記(ごんき)』、道長の『御堂関白記(みどうかんぱくき)』の寛弘(かんこう)二年(一〇〇五)の記事に、大宰府と宇佐八幡宮との抗争に関連して罪名勘文が陣定で定められた大宰典代長岑忠義(ただよし)、実資の『小右記』の寛仁(かんにん)三年(一〇一九)の記事に、刀伊(とい)の賊徒に拉致された女十人を、高麗国に渡って随身して帰ってきた対馬島判官代長岑諸近(もろちか)、そして『小右記』の長元(ちょうげん)五年(一〇三二)の記事に、佐渡(さど)国に配流されていた長岑忠義が伊勢大神宮の託宣によって罪を赦されて召し替えされたことが見える。

 この三人が高名の子孫であったかどうかはわからないが、その可能性もあるであろう。少なくとも同じ氏族の者が活動していることに、少なからず安堵する次第である。

(倉本 一宏)